かつてこどもは、地域の人びとによっていつもなんらかの形で見守られていた。地域の未来がこどもたちの手によって支えられることが、実感として確信されていたからである。家と家、人と人との関係が、日常的に、生活のあらゆる場面において認められていたし、そうした関係が必要とされてもいたからである。それはこどもたちにとって一面窮屈なことであり、迷惑なことでもあった。しかし、地域社会が人と家との強い結びつきで成立している社会においては、いつもこどもを見守ることはごく自然なことでもあった。
こどもの誕生は、まずは母親である嫁の、家族のなかにおける地位の安定に大きな役割を果たしたが、それだけではなかった。家の存在を、少なくともつぎの世代にまで継続させることができる保証ともなった。それゆえ、家にとってもっとも大きな祝いの一つであった。両親の婚礼と披露、それにつづく妊娠祈願や安産祈願などをへて、この世に生まれくるこどもの存在は、婚家と嫁の生家とのあいたでまず確認される。嫁の里からあいさつにきたり、腹帯を贈ったりするのである。こうして多くの人びとに認められ、期待されたうえでの誕生であった。女ばかりのこどもに婿養子を迎えてようやく男の子が誕生した、などというときには、産着(うぶぎ)にくるまれたこどもは祝いにきた人の手から手に渡され、下に寝ているときがなかったなどということもあった。
生まれてくるこどもをとおして約束された家の継続は、地域社会の安定・存続を約束するものでもあった。そのために、ウブタテ・ミッカヨ・お七夜・宮参り・食い初めなど、出産につづく祝いには親族をはじめとする関係者が参加し、初節供には雛(ひな)人形やこいのぼりが贈られる。年の暮れには天神様や紫式部・清少納言などの掛け軸が贈られるのである。
このようにして迎えた初誕生は、こどもの存在をより明確にするものであった。こどもの存在が大きければその祝いもまた大切なものであった。昭和二十年代まではほとんどおこなわれなかった七五三の祝いが盛んにおこなわれるようになったのも、家族や地域の人びとが期待を寄せるこどものあり方と無縁ではない。そしてそのこどもがどのように成長するかということも、地域の人びとの大きな関心事であった。目上の人に会ったときにきちんとあいさつができる、家の手伝いをよくする、弟妹の面倒をよくみる、餓鬼大将として指導力を発揮する、などということは、こどもたちの日常生活をいつも目にしているものにとってはすぐにわかることでもあった。