学校友達

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家を中心とする地域社会の内部で展開されていたこどもたちの生活は、小学校に入学することによって一変する。にわかにその生活の場が拡大するのである。幼少時からともに生活してきた近隣のこどもたちのほかに、まったく知らないこどもたちが新たに加わって、学校という社会における生活が始まるのである。そして組分けによって作られた学級(クラス)という新しい集団を基礎にして、こどもたちの評価は学校のなかでも新たになされるのである。

 もっとも、生活の基本が地域社会に置かれている場合には、それがそのまま学校のなかにもちこまれても不都合は生じない。地域ごとの対立はあっても、学校という新しい秩序のなかにおいてあまり表面化してはこない。また、それぞれの地域におけるこどもたちのあり方は、上級生の情報などによってけんかが強いとか、魚取りがうまいとか、あるいは大工の棟梁(とうりょう)のこどもであるとかと確認されるのである。

 そしてしだいに新しい仲間を作っていく。それは通学区という限定された範囲ではあっても、いままでとは格段に広い地域のなかで形成される友人関係である。これは、学校のなかにだけとどまるというものではなかった。お互いの家を訪れあうなかで、自分の家や地域と異なる生活の存在を知ることにもなった。市街地近郊の地域の場合、村のこどもと町のこどもとがいっしょに学ぶことになる。まずその服装の違いやものの言い方にたいする違いが両者のあいだに微妙な緊張関係を生みだす。村のこどもにとっては多少の気おくれと、その裏返しとしての乱暴な敵対的な言動。町のこどもにとっては多少の優越感と、それにもとづく横柄な物言い。しかし、それもこどもたちの交流が深まるにつれてだんだんに影をひそめていく。お互いの家を訪れあう機会も増える。

 町のこどもの家を訪れた村のこどもが、店で客と応対する姿や、サラリーマンの家のオルガンや書棚などを見て、町の生活がただの物珍しさだけで見ていたものとは違うということに気づくのもこうした機会であった。また、町のこどもが村のこどもの家を訪れて、広い屋敷や部屋、あるいは鶏やうさぎなどの家畜に触れて、農家の生活が、町の生活とは異なる意味で豊かであることに気がつくこともあった。異なる生活の存在を知ることによって、そのような生活をおくってきた友達にたいする評価が変わってくるのである。

 しかし、学校における個人の評価は、勉強ができるかどうかでなされることが多く、それは村の生活のなかでのものとは違っていた。教育にたいする期待が強くなるにしたがって、かつてのような村の評価は相対的に軽視されざるをえなくなってきた。いくら小さなこどもの面倒をよくみたり、仕事をよくしたりしても、あるいは魚を捕らえることがうまくても、学校の成績がよくなければその子が高い評価を得ることはなかなかむずかしかった。学芸会や音楽会で目立つこどものほうが村においても高く評価されることが多くなった。このようにして村の生活のなかにも学校の評価が侵入し、こどもの生活世界は変わらざるをえなくなった。


写真2-97 学芸会(信更町吉原 昭和31年)

 だが、それでもなおこどもの世界におけるこどもの評価は、学校のものだけであったわけではない。家に帰ってくると地域のこどもの生活があった。昭和二十年代の芹田地区のある村で、小学生たちの仲間の先頭に立っていたのは、体が大きい六年生のMであった。学校の成績が特別よいというわけでもなく、無口であまり目立たない存在であったが、村のこども会の会長をつとめており、家の手伝いをよくしていたという。その遊び仲間は数人の男の子たちで、お宮の庭でベース(野球)やオニカイ(鬼ごっこ)やマルパン(めんこ)をしたり、川中島合戦とよぶ陣取りをしたりして遊んだ。夏休みには大人の盆踊りをまねて仲間だけで盆踊りをしたりし、冬になると雪の積もった道路で竹スキーや、一五センチメートルぐらいに切った孟宗竹(もうそうちく)を半分に割り、鼻緒をすげたポックリを履いて滑ったりした。そんなときのMはみんなをリードした。もっとも、秋になって柿が色づくころ、おいしそうな柿のなっている木に登って柿を取らせ、見つかって怒鳴られるといちばん最初にさっさと逃げだすのもMであった。道に面した塀の陰に隠れて、通行人にたいして「ダンスをするのはやめましょう」などと年少の子にいわせ、怒った若者が捕まえようとすると真っ先に逃げてしまうのもMであったという。学校における目立たないMとは異なるMの姿であり、地域におけるMの評価は学校における評価とは異なっていたのである。


写真2-96 遊び仲間(芹田 昭和34年)