家においては家族に見守られ、村のなかでは村の人たちに見守られていたこどもも、学校に入学することによって、その世界は格段に広がる。そして、さまざまな人びととともに社会生活を営む術を身につけるのである。それはこれからの人生を選択する時期と重なっていた。
かつての農家においては、長男は家を継いで農業を営み、二男以下はみずからの力によって生活を営まなければならなかった。家に経済的な余力があれば分家に出してもらうこともできる。しかし、分家という以上、一戸を構えて生活できるだけの条件を満たしてやらなければならなかった。赤沼(長沼)では経済力があり家・田地などをあたえることができる家が分家を出したという。だから、財産があれば分家をたくさん出せるということもあるが、実際にはすべての男の子を分家に出すというわけにはいかなかった。婿養子にいくことのできるものも限られていた。必然的に生きるための力をつける必要があったのである。
小さなころから長男と二男以下とのあいたに、それとない区別をつけて育てていたのも、それぞれの生きる条件が異なっていたからでもあった。長男は家を継いでそれをまた次代に伝える義務があった。そのほかのこどもたちは、みずからの人生を開拓しなくてはならなかった。それぞれの立場を認識し、それに応じた能力や技術を身につけるために、こどもたちの進路には限定があった。その進路は小学校、のちには中学校(新制中学)の卒業時に明確になることが多かった。
いくら勉強が好きで進学したいと思っても、農業をするのだからと農業学校へ行かせてもらえればよいほうであった。昭和三十年代においても、学級でトップクラスの成績のこどもが農業高校に進学しただけで、大学には進学しないことがめずらしくなかった。かつて大部分のものは、家を継ぐのに学校に行く必要はないといわれ、進学をあきらめることが多かった。また二、三男以下のものも、進学をするよりも働きに出るもののほうが多かった。大正時代のすえ、信里小学校(篠ノ井有旅)の六年生の男子生徒三〇人のうち、進学したのは三人だけであったという。そのころの卒業式には、
(在校生)年月めぐりて早ここに 卒業証書を受くる身と なりつる君等が嬉しさは そもそも何にかたとうべき
(卒業生)吾等はこれよりいや深き 学びの道やなりわいを 努め励みてみ恵みに 報いまつらん今日よりも
(いっしょに)朝夕慣れにし学び舎の うれしき思いをさながらに 別れて幾とせ隔つとも 互いに忘れじ忘るまじ
と歌ったが、学びの道に進むものよりも、卒業するとただちに働くものが大部分だったのである。
こうして学校に学ぶことは、こどもの世界からおとなの世界に入ることと直結していたのである。二つの世界をつなぐ学校生活は、こどもたちにとってこれ以後の生活に大きな意味をもつものでもあった。そして学校を出るとこどもたちは若者の仲間入りをして、地域社会を支えるためにしなければならない活動が待っていたのである。