謡曲は、室町時代初期に成立した歌舞劇の一種である能楽の詞章(台本)のことで、「うたい(謡)」ともいう。現在、広く一般におこなわれている北信流は、杯事とこの謡曲とをセットにした形式である。
北信流の始まりは、戦国時代の武将が出陣するときに、留守居役の家老が、主君の武運長久を祈願して杯を差しあげ、謡をうたったり、舞をまったことに始まるといわれている。また北仁流は近代に突然始まったものでなく、松代町や善光寺町の上流階級では、江戸時代からおこなわれていたもので、それが江戸時代後期から謡曲の趣味が庶民のあいだに広まるにつれて少しずつ農山村にも入り、明治二十年代以後、謡曲が非常な勢いで普及するにつれて、北信流が社会の常識になっていったと説かれている(『長野』四九号)。
能楽の流派としては、古くからある大和猿楽(やまとさるがく)四座の観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金春(こんぱる)・金剛(こんごう)の四流、またはこれに江戸時代初期に金剛の弟子喜多七太夫が一流派をつくり独立したといわれる喜多流を加えた能楽五流がある。信濃でも、戦国時代から武士や神官のあいだに能楽の趣味がいきわたっていたようで、江戸時代に入ると大名や武士のあいだで謡曲がいっそう盛んにおこなわれた。松代の真田家には立派な能衣裳が伝えられており、武道もさることながら能楽などの遊芸や学問に力を入れたとされる。三代藩主真田幸道(ゆきみち)のとき、観世流の能役者西村三郎兵衛を召しかかえ、その子孫も藩に仕え、能楽は隆盛をきわめた。そのために藩士のなかには自宅に能舞台を設けるものさえいたといわれている。