能楽が庶民のあいだに広まったのは近世後期のことで、そのころ謡曲や生花・折り紙なども教えていた寺子屋の師匠の影響が強かったようである。たとえば鬼無里(きなさ)村(上水内郡)の和算家寺島宗伴(そうはん)などは門人が二千人からいて、謡曲なども教えていたという。しかし、松代の謡曲は田舎風でなまりがあったために、明治時代以降それに気づいた師匠たちは、直接中央の指導を受けるようになったという。
明治時代には観世(かんぜ)流の家元が、長野市西町の旧庄屋で大勧進執事の宮下家に寄寓(きぐう)していたこともあり、善光寺周辺に観世流が多くみられるようになった。そのためか、北信流の謡はほとんどが観世流であり、ほかにはわずかに宝生(ほうしょう)流がみられるだけである。