北信流のおこなわれる地域は、図2-33にみられるように善光寺平を中心とした地域である。
北信地域でも飯山市以北には見当たらず、いわゆる善光寺平とその周辺の山間地もふくめた範囲の地域に限定されているということができる。北信流は、別名「松代流」ともよばれるが、それは、近世の松代藩領でおこなわれていたためともいわれている。松代を中心として広く分布している北信流は、松代のすぐ近くであっても南側の地蔵峠を越えた旧上田藩領の真田町ではみられない。
真田町で、県下各地を回っていて北信流を知っている教員などが、宴会の席で「北信流をやれや」などと提案してやることはあるが、ふだん地域のなかに北信流が定着しているとはいえないという。しかし、同じ町内の菅平では実施されている。
また千曲川沿いにみると、上流では更埴市や戸倉町・上山田町ではおこなうが、上田市ではおこなわない。戸倉町あたりには、松代から八幡(更埴市)をへて、明治時代中ごろに伝わったといわれる。下流のほうでは豊田村(下水内郡)や中野市あたりまではおこなうが、高社山を越えた飯山市以北では実施されていない。
いっぽう上水内郡内をみると、北のほうでは信濃町までが善光寺平の村同様に盛んにおこなわれている。西側の鬼無里村では生活改善運動の一項目にあげて改善しようという動きがみられるほど、盛んにおこなわれてきた。しかし、隣村の小川村では実施年代が割合新しく、「大正時代までは全般的にはおこなわれていなかったが、終戦後に急速におこなわれるようになったもので、今では小人数の会合にもかならずおこなわれている」という。このことは北信流の広がり方を示唆するものである。犀川沿いの地域では旧松代藩領の信州新町まで実施しており、旧松本藩領の東筑摩郡生坂(いくさか)村や北安曇郡八坂(やさか)村あたりまでいくと実施していない。ただ北信流に近いことはおこなっているという。ところが、それより南側の坂井村や麻績(おみ)村など東筑摩郡内になるとまったくみられない。