現在の結婚式はホテルや教会を利用することが多く。それぞれの施設のマニュアルに沿っておこなわれるので、なかなか北信流をおこなう機会はない。しかし、昭和三十年代までは自宅の座敷などを開け放っておこなわれ、時間も気にすることなく夜を徹して宴が繰りひろげられた。そのころまでは、三三九度を初めとする杯事の折に、あるいは宴の区切り目には北信流がおこなわれ、余興とは別に謡が流れるのが常であった。
松代町では嫁は仏壇にお参りしたのち、仏壇に背を向けないようあとずさりして、座敷口から生家を出る。婚家に入るときにはお勝手口から入るが、二度と生家に帰らぬようにと草履(ぞうり)の緒を切って屋根に投げ上げる。嫁は親族とともに宴席とは別の部屋に通され、杯事がおこなわれる。まず、三三九度の杯がおこなわれるが、仲人がもった杯にお酌とりの男女児が酒をつぎ、杯を新郎・新婦交互に手渡して順次進行する。このときには「所は高砂の尾上の松も年ふりて」で始まる「高砂」がうたわれる。のちには三三九度の杯のあと指輪の交換がおこなわれるようになり、このときには「長き命をくみて知る」と「玉の井」がうたわれる。つづく親子杯・兄弟杯には「養老」・「鶴亀」を、親類杯には「春栄(しゅんえい)」・「難波(なにわ)」を、仲人や親分と嫁との親子杯は「白楽天」がうたわれる。
披露宴は宴席を取りしきるテイシュヤク(亭主役)とよぶ司会者のあいさつ、主(あるじ)のあいさつで始まり、冷酒・燗酒(かんざけ)の順に杯をほす。亭主役が料理に箸(はし)をつけてほしいという口上があって、客は料理に手をつける。みんながほろ酔い気分になったころを見計らって、親戚の長老などが「ご一家にお喜びの杯を差し上げたいと思いますが、亭主役のほうからご一同におはかりください」といった声が掛かる。亭主役は「ただいま○○さんからお喜びの杯をというご指名がありましたが」と一同にはかり、お喜びの杯がおこなわれる。杯を受けるのは一家の主であり、お酌をするのは本家や分家や親戚の若者などがあたる。「春栄」などの謡が出される。つづいて仲人に「お礼の杯」がおこなわれる。謡曲は四、五年は練習を積んだ人を頼んだ。
やがて十分に酒食をつくし夜もふけたころ、長老から「納めの杯」をする旨声が掛かる。「げに道ひろき納めなれ」という納めのことばが入っている「難波」の節の違うところなどがうたわれる。「納めの杯」は亭主役にたいしてのもので、この杯が終わると客は席を立つ。親戚の人びとが立つときなどに嫁方からよばれてきた客のなかの一人が「これまでなりや うれしやな 我はまた東に帰る名残かな 名残かな」といったことばが入っている「湯谷(ゆや)」をうたう。これは里帰りの折に、嫁が生家を立つときなどにもうたわれる。
こうした婚礼の進め方は松代町だけでなく、善光寺平のいたるところでおこなわれていた。小謡の主なものはつぎのようなものである。
三三九度の杯のときの謡
「所は高砂の 所は高砂の 尾の上の松も年ふりて 老の波も寄り来るや 木の下蔭の落ち葉かくなるまで命ながらへて なお何時までか生の松 それも久しき 名所かなそれも久しき名所かな」(高砂)
「四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝を鳴らさぬ御代なれや あひに相生(あいおい)の 松こそめでたかりけれ げにや仰ぎても 事も疎かやかかる代に 住める民とて豊かなる 君の恵みぞ ありがたき君の恵みぞありがたき」(高砂)
「長き命を汲(く)みて知る 長き命を汲みて知る 心の底も曇りなき 月の桂(かつら)の 光そふ枝を連ねて諸共(もろとも)に 朝夕馴るる玉の井の 深き契りは 頼もしや深き契りは頼もしや」(玉の井)
親子杯の謡
「老いをだに養はば まして盛りの人の身に 薬とならば何時までも 御寿命も尽きましき 泉ぞめでたかりける げにや玉水の 水上澄める御代ぞとて流れの末の我等まで 豊に住める 嬉しさよゆたかに住める嬉しさよ」(養老)
「松が根の 岩間を伝ふ苔筵(こけむしろ) 岩間を伝ふ苔筵 敷島の道までもげに末ありやこの山の 天霧(あまぎ)る雪の古枝をも なお惜しまるる花盛り 手折りやすると守る梅の 花垣いざや囲はん梅の花垣を囲はん」(老松)
「かやうに名高き松梅の 花も千代までの 行末久に御垣守 守るべし守るべしや神はここも同じ名の 天満つ空も紅の 花も松も諸共に 神さびて失せにけり あと神さびて失せにけり」(老松)
「歳を授くるこの君の 行末守れと我が神託の 告を知らする 松風も梅も 久しき春こそ めでたけれ」(老松)
兄弟杯の謡
「庭の砂は金銀の 庭の砂は金銀の 珠を連ねて敷妙の 五百重の錦や瑠璃(るり)の樞(とぼそ) しゃこうの 行桁(ゆきげた)瑠璃の階(はし) 池の汀(みぎわ)の鶴亀は 蓬莱山(ほうらいさん)も外ならず 君の恵みぞ ありがたき君の恵みぞありがたき」(鶴亀)
伯父伯母叔父叔母の杯の謡
親子杯と同様
親戚杯の謡
「なほ喜びの盃の 影も廻るや朝日影 伊豆の三島の 神風も吹き治むべき代の始め幾久しさとも限らじや 嘉辰令月とはこの時を言ふぞめでたき」(春栄)
こうした杯事のほか、南俣(芹田)などでは婿養子をもらったときには婿にお喜びの杯が出され「烏帽子折(えぼしおり)」がうたわれたという。また、宴のあいまには余興も出され、分家の主人が杯と箸(はし)を使って正月から十二月までの行事歌をうたってくれたことが記録されている。