家にこどもが生まれるとさまざまな祝いがおこなわれるが、盛大におこなわれるのは七夜と宮参りである。現在は七夜と宮参りをいっしょにおこなう場合が多く、生児の母の生家の両親をはじめ仲人、伯父・伯母、叔父・叔母、本家あるいは分家などを招く。
以下は、南俣で昭和五十三年(一九七八)二月に生まれた女児の、七夜・宮参り・初節供を三月の下旬にいっしょにおこなったときのようすである。
生児の母親は生家に帰って出産し、この日初めて婚家に戻った。生児は祖母に抱かれ、母親の生家から贈られたカケイショウ(掛衣装)をかけて、正装した母親とともに洗米・お神酒(みき)をもって氏神に詣でる。参拝後は道々出会った人にお神酒を飲んでもらうほか、本・分家などには立ち寄ってこどもの額にクライボシ(位星)をつけて祝ってもらう。位星はオシルシなどともいい、男の子は墨で女の子は紅でつけてもらう。神社から帰るころ招待客が集まりはじめ、生児を囲んでひとしきり談笑したのち、祝宴が開かれる。宴の正客は母子と母親の生家の両親である。生児を抱いた母と母の両親が床の間を背に座り、その両側に親戚が座る。生児の父親は二男でのちに分家したが、この時点では遠方の勤務地に居住していたので、祝宴は本家を借りておこなわれ、生児の祖父に当たる本家の主人がこの日の亭主役をつとめた。当日の席次は図2-34のとおりである。
祝宴は司会進行をつとめる亭主役が、本席は七夜・宮参り・節供を合わせた祝いであること、客の参会にたいする感謝、亭主役をつとめる旨の口上で始まった。ついで生児の父親のあいさつがあり、亭主役が冷酒・燗酒の順に酒をすすめたのち。「どうぞお吸い物にお手をおかけください」という口上があって、参会者がお膳の料理に箸をつける。亭主役の妻や生児の伯父伯母である本家の長男夫婦が客の接待にあたり、宴が始まって客が多少の満腹感を感しはじめるころ、親戚の長老から、生児の母親と母親の両親および仲人に「お喜びのお杯を差し上げたい」という発声があり、亭主役夫婦・長男夫婦・生児の父親がお酌をして、亭主役がお肴(さかな)を出して杯がおこなわれた。お肴としての謡は「鶴亀」で「君の恵みぞ ありがたき」を繰りかえして終わる。ついで返杯の意味で「お礼のお杯」がおこなわれ、「お喜びの杯」をいただいた人がお酌をする。「お肴」はほんらいなら正客などが出すものであったが、この席では亭主役が唯一謡のできる人だったので、謡は亭主役が出した。
こうした「お杯」が終わると、早く席を立ちたい客などは接待の主婦などに「御飯をいただきたい」と告げて、飯と汁を運んでもらう。当日の席はこどもの祝いということで出席者は女性が多く、男性客が多い他の宴席よりもとくに早めの食事の要求があった。接待側は御飯の要求があると「そんなことをおっしゃらずに、もっと召し上がってください」と酒肴をすすめるが、客側は「もう十二分にいただきましたので」と酒肴を断わり、御飯を運んでもらう。このころになると亭主役もほとんど役目を終わり、男性客にお酌をして回ったりしている。亭主役を他の分家の主人などに頼んだときには、「お喜びの杯」のやりとりのあとに亭主役への「納めの杯」があって食事になるが、この席では亭主役がこの家の主人だったために、「納めの杯」は省略された。食事が終わると客は折り詰め・引き出物・引き菓子などを各自まとめ、それぞれ亭主役、生児の父親などにお礼のあいさつをして辞去する。
なお、この日は節供の祝いも兼ねておこなわれたので、生児の母親の里から贈られた雛(ひな)人形が座敷に飾られ、客に披露された。そのほか生児のために贈られた箪笥(たんす)・カケイショウなども座敷の隅に並べられる。また、生児の名前を書いた紙が座敷の仏壇横の違い棚のある床にはられて披露された。