法事

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平成二年(一九九〇)十一月初旬、昭和五十一年(一九七六)に亡くなった婿養子である当主の義母の十三回忌と先祖代々の法要をおこなった南俣のある家の例である。招待客と席順は図2-37のとおりである。十三回忌ということで、義母の生家とごく身近な親戚、子分を招いての法要であった。亭主役はもっとも新しい分家である当主の義弟がおこなった。午前一〇時半ごろから客が集まりはじめ、一一時からの読経・説教、施主のお礼のあいさつののち、宴席を整え一二時近くからオトキとよぶ忌中払いの宴が始まった。まず、亭主役が参会のお礼と自己紹介をしたのち、施主がお礼のあいさつをした。施主のあいさつは母親が亡くなって一三年たったことやそのあいだの家族の状況などを交えながら、家の歴史と変遷などにおよぶものであった。施主のあいさつが終わると同時に冷酒が一献(いっこん)されたあと、「ひきつづき燗酒を申し上げます。(亭主役が燗のつきぐあいを毒味して)加減も上々のようでございますので、ゆっくりお召し上がりください」との口上で燗酒がつがれる。そして「前にございますものは粗肴ではございますが、ごゆっくり召し上かっていただきたいと思います。どうぞお楽にしてお召し上がりください」と亭主役に飲食を促されて、客は酒肴に箸をつける。二、三十分したころ「お寺様にお礼のお杯を差し上げたい」という長老(義父弟)の発議により、施主と妻と跡取りが杯をもって三人の僧侶の前に進み、お酌をする。この三人はいちおう発議者がだれとだれとと指名はしたが「お寺さんにお杯」といえば、だれが酌をするのかはわかっているので、お勝手などにいる施主の妻もすぐに座敷にかけつけた。「お肴」は義母の生家の甥(おい)が謡の名手だったので常に出していたが、今回は甥の息子が出席したため、練習を始めたばかりという跡取りの妻の生家の父親が指名された。習いはじめて一年ほどといい、こうした席でおこなうのは初めてとのことで、本を見ながらの「お肴」で、「弱法師(よろぼうし)」がうたわれた。つづいて本坊のご院主様から杯をいただいたお礼にこちらからもお杯を差し上げたいという発言があり、施主夫婦と跡取り夫婦にお杯を差し上げ、やはり跡取りの妻の生家の父親が「お肴」の「隅田川」をうたって杯事は終わった。


図2-37 法事(施主との関係)

 この杯が終わると、お寺さんは御飯をいただきたいと食事の要求をし、他の客より早く御飯をいただいてごちそうなどをまとめ、仏壇に一礼して席を立った。この間およそ一時間ぐらいであった。お寺さんが立ってしまうとあとは親族や分家・子分だけの親しい間柄の人びとだけになってしまうので、座は一段と和やかになり、互いの近況を尋ねたり報告しあったりして時を過ごす。お寺さんが去ってしばらくした頃合いを見計らって、長老(義父弟)が亭主役に「納めの杯」を差し上げたいと提案し、亭主役に義母の生家の甥がお酌をして、亭主役がお杯をいただく。このときには返杯はないが「決まりでございますのでお杯はいただきましたが、まだ時分も早いことですし、なおごゆっくりお召し上がりください」と酒肴をすすめる。しかし、このころになると女性客は御飯をいただきたいと求め、男性客のなかにはまだ飲んでいる人もいるが、女性客は早めに食事をもらう。御飯と味噌汁の食事がすむと、「お茶をいっぱい上がって」などと引き止める家人に礼をいいつつ、ごちそうや引き出物、引き菓子など両手にいっぱいの荷物をいただいて、客はそれぞれの家に向かう。男性客もそのころには食事をする人が多くなり、次々と帰宅する。

 仏の子どもや孫を除いた客は、午後三時前にはほとんど帰り、残った人びとで後片付けをしたり、改めてお茶を飲んだりして、それらの人びとも五時前には引きあげた。

 法事はこのほか新築祝いとかねておこなわれることもある。家を新築した場合、当然、仏壇を新しくしたり、あるいは「お洗濯」に出してきれいに塗りなおしてもらったりするからである。そのため、新築のお祓(はら)いと同時に、オッシャンをよんで仏壇のお魂(たま)入れをしてもらうからで、ついでに先祖代々の供養や近年亡くなった人がいれば、その仏の供養も合わせておこなってもらうのである。

 このような法事の席には安茂里小市のように謡がつかない場合もあり、謡に代わるものとしてオッシャンの法然上人御詠の歌などがお肴として出されることもあり、これも北信流と認識されている。