生活改善運動などにより、虚礼廃止とか華美な冠婚葬祭はやめようとか、酒席での杯のやりとりはやめようとか、さまざまなことが提唱されている。しかし、現在もなお北信流はさまざまな儀礼の折ごとにおこなわれている。冠婚葬祭などの宴席の流れをつくるとともに、本家や分家などの同族組織の強化という意味をもちつつ、長いあいだ継承されてきた。いっぽう、現在では会社の宴会やPTAの会合、町の寄り合いなどさまざまな機会に北信流がおこなわれることにより、同族組織の強化という面にたいする意識は薄れ、形式的部分だけをおこなうことによって、宴席の流れや宴席の終了の合図という面が強化されるようになった。たとえば、考古学者の大塚初重(はつしげ)は、昭和二十六年(一九五一)夏の大室(おおむろ)古墳群(松代町大室)の発掘調査のときの北信流の思い出を、『朝日新聞』の「私の失敗」というコラムに「涙のどじょうすくい」と題してつぎのように書いている。
私にも「ほろにがい人生」のひとこまがある。若い日の私など、まことに単純で愚かな男だった。
一九五一年(昭和二十六年)夏、大学の考古学研究室助手として、後藤守一教授に従い、学生六人と長野市大室古墳群の調査に赴いた。一ヵ月におよぶ発掘調査が無事終了、帰京前夜に地元の村長さんや村の有力者が、小学校の裁縫室で送別の宴を開いてくれた。北信流ともいわれる酒宴は謡に始まり、謡で終わる。
戦後間もないころで、貴重な地酒がたっぷり振る舞われ、発掘終了の心の緩みから楽しく飲んで酔っ払った。宴が終わる寸前、発掘隊を代表して助手の私がなにか芸を披露せざるをえなくなった。私は「泥鰌(どじょう)すくい」と決め、そばの入ったざるを手にして立ち上がった。
実は私には、上海での海軍捕虜時代の秘話がある。日本への帰還の当てなどない捕らわれの身、時には演芸大会が開かれた。歌も踊りも不得手な私たち若い下士官は、年季の入った同じ階級の下士官たちから、何も出来ぬばかどもと毎夜殴られた。部下だった愛媛出身の劇団座長が悔しがり、私を男にすると言い張って毎夜、安来節と「泥鰌すくい」の涙の特訓。次の演芸大会で私は見事優勝したのだ。
大室での「泥鰌すくい」は大喝さいを博したが、ざるのそばを座敷にぶちまけてしまった私は、後藤先生の「ばか者!!」で我にかえり、そばを集めて食べた。もう助手は今年限りと覚悟した。信濃の星が美しかった。
こうした機会は現在でも数多くあり、謡をうたえない人は、謡の代わりにさまざまな余興をしている。そうすることによって、より宴会を盛り上げるといった余興色が濃くなってきているようである。
また、本家や分家といった同族組織ではなく、会社の組織内における上下関係など、それぞれの属する集団内での主従・上下関係が明確に認識される機会ともなっている。主と従あるいは上下といった表面に顕著にみられる意義は伝統的な北信流と同じにみえながら、実は伝統的な北信流とは別の意味をもつ北信流の再生産ともいえよう。