村の入り口

643 ~ 644

村は、屋敷が集中するところを中心として形成される。そのなかで人びとは生活や生産を営むために組織や秩序をつくりながら共同生活を営み、地域社会の象徴として氏神をまつっている。また、この生活の場である村の外側には耕作地や山林などをもっており、共同体としての意識が強く認識され、村における生活の安全を守るために村への入り口などに道切りの注連(しめ)を張り、道祖神や地蔵などの石造物、神木などをまつる。こうした内と外を区別する、いわゆる村境を設定することにより、村のなかに危険な悪霊や災害、人間などの侵入を防ぎ、常に平和で安全な空間を保とうとしてきたのである。

 だが、この村の人びとが暮らしを営み、農作物などを作る過程で、さまざまな問題に直面することがある。たとえば、害虫の発生はそのまま凶作につながることでもあった。また、鳥やもぐらも農作物に害をあたえてきた。こうした田畑の作物を荒らす動物や鳥、虫を田畑から追い払うために、音や火で防いだり、案山子(かかし)で脅かしたりするなどさまざまな方法が工夫された。

 いっぽうで、岡(篠ノ井西寺尾)などのように、八月三日の末社祭りに虫よけのために神主さんがお札をもってくるところもある。それを村はずれの家の木などにこよりで下げ、害虫の侵入を防ごうとした。また、小市(こいち)(安茂里)では稲の虫を送りだすといい、竹の先につけた麦藁(むぎわら)に火をつけ、こどもたちが夕飯を食べてから土手沿いに隣の村との境まで追ったという。戸部(とべ)(川中島町)でも明治ころまではこどもたちが松明(たいまつ)をかざして歌をうたい、太鼓をたたきながら村はずれまで害虫を送った。このほか、東横田(篠ノ井横田)ではよしでつくった虫籠(むしかご)や松明を千曲川に流して追い払ったし、中沢(篠ノ井東福寺)では双盤をたたいて送った。