町と農村地帯との境には、田畑などの広い耕地が存在し、物資などの交流をおこないながらもそれぞれの集落において生産活動や生活が営まれてきた。しかし、明治三十年(一八九七)に市制を施行した長野市は、その後も周辺の村々と合併を重ねつつその範囲を広げ、昭和四十一年(一九六六)には現在の市域にまでその広がりをみせた。このころには、近郊の農村地帯においても急激に世帯数が増加しはじめ、市街地化も速度を増すようになった。
このように、集落の形態などが急激に変化するなかでも、境における儀礼がおこなわれている。たとえば、鍋屋(なべや)(吉田)で二月におこなわれるヤクジンサイ(疫神斎)において、今では家々が建ち並んでいるかつての集落の出入り口四ヵ所に、悪霊や流行病が入ってこないように御幣を立てて集落の安全を祈願している。