いっぽう、人が死ぬということは、魂がこの世の境をこえてあの世に移っていくことであると考えられた。そのため、安全に魂があの世に行けるようにさまざまな儀礼がおこなわれるが、この世に迷いがあると幽霊となって出てくるといわれた。桜枝町などでは、目を落とすきわに枕元で名をよぶと死者があの世にいくのを迷うといい、名をよぶことを忌んだ。そして、目を落として仏になると、きれいな着物に着替えさせて安置した上に一番上等な着物を逆さにして掛け、刃物をその上にのせた。これは悪霊などから仏を守るための魔よけであるが、猫が仏をまたぐと死者が踊りだすから猫を近づけないためでもあるといわれた。
犬石では、土葬のころは荒縄で棺桶(かんおけ)を縛って埋葬し、動物に掘られないようにその上に石を置いた。このとき、ヒッコクリ、ワナグリなどといって荒縄で墓のまわりに輪をつくり魔よけとする家もあった。松代町では産婦に不幸があると、「南無阿弥陀仏」の名号と産婦の名前を書いた真っ赤な布を川沿いに張り木の杓子(しゃくし)を水に浸しておいた。お参りにきた人が川の水をかけてやり、布の赤色が薄くなって白色になればその産婦も成仏して極楽往生できたといわれたが、これは川が死者の世界に通じているとする考えにもとづくものであろう。
また、盆のときはこの世に先祖の霊をよび供養する。芋井などでは、七月三十一日をウラボンとよんで盆が始まる日とされた。そして、新仏(あらぼとけ)のある家では善光寺にお参りしたり、お籠(こ)もりしたりして仏をこの世に迎えた。栗田や桜枝町では新仏のある家でなくても、善光寺に仏を迎えにいくといってお参りした。かつては、お籠もりする西山の人たちで善光寺の本堂のなかはいっぱいだったという。八月一日は地獄の釜蓋(かまふた)があく日とか、石の戸などといい、この世とあの世との境である釜の蓋が開く日とされている。仏がオヤキを釜蓋に投げつけ開けて出てくるのだといい、先祖が蓋を開けやすいようにこの日のオヤキはできるだけ固くつくり仏に供えるというところもある。
十三日には盆棚をつくり、棚には本尊様、位牌(いはい)、過去帳などを並べる。そして、ききょう、あわばななどを飾り、きゅうりの馬、なすの牛をつくって棚の一番下の段に供える。この牛馬に乗って仏がやってくるといった。十三日は迎え盆であり、夕食前に家ごとに迎え火を焚(た)いて仏を迎える。昔は麦藁(むぎわら)や豆がらなどを使うところも多かったが、最近ではそうしたところでもカンバとよぶ白樺(しらかば)の皮を買ってきて使うところが増えた。家の門口などで迎え火を焚き「じいさん、ばあさん、このあかりにおいだあれ、おいだあれ(おいで、おいで)」などと唱える。提灯(ちょうちん)をつけてお墓まで行って迎え火を焚き、仏を家に迎えてきてふたたび玄関で迎え火を焚くという家もある。あの世とこの世との境を分けるものを墓と考え、あるいは家の門口と考えるのである。そのそれぞれの境をこえるときに、あかりをともし、仏をよぶことによって境をこえやすくするのである。善光寺の本堂の前に立てられている高灯籠(たかどうろう)も、あの世から帰ってくる仏のための目印である。
こうして迎えられた仏は、十六日の送り盆でこの世からあの世に帰っていく。夕刻に、ほうろくでウスヤキをつくり、「ふろしきにしておもちなして」といって仏が帰っていくときのお土産として仏壇に供えたところもある。そして、門口や墓前で送り火を焚き、「じいさん、ばあさん、このあかりにおけられよー、おけられよー(おかえりよー、おかえりよー)」などと唱える。また、盆棚もこわしてしまう。この世を訪れたときと同じ作法をもって、仏はまたあの世への境をこえるのである。火は境をこえてくるときにも、境をこえていくときにも大きな役割を果たしていることになる。
この火は各家ごとに焚くだけではなく、地域を単位としておこなわれるところもある。扇平(芋井)では、こどもたちが各家からカンバを集め、家々を巡って迎え火と送り火を焚いた。また、新安(あらやす)(芋井)ではこども会が中心となり、四ヵ所の道路の真ん中で迎え火と送り火を焚いた。ここに善光寺から仏を迎え、ふたたび善光寺へ送るのだという。