明治三十一年(一八九八)に長野市に電灯がともると、それ以降、暮らしのなかで火を使うことが一つ少なくなった。それでも明治、大正のころは、夜業といえば松の根を燃やしてあかりにしたり、ランプを使ったりしていた。ランプを使っていたころは、ホヤ磨きはこどもの仕事たった。女は石油で手が汚れると、食事の支度ができないのでやらなかった。また、ちょっとでも遅くまで起きていると石油がもったいないので、早く寝るようにしかられたという。
電灯がともってもしばらくは、家庭に電灯は一つだけで、電球を取りつけた電線を茶の間からお勝手、座敷へと移動させて使っていた。それでも屈かないところでは、やはり提灯(ちょうちん)やランプを使うことが多かった。しかし、毎日の生活のなかでは、しだいに火を使うあかりは姿を消していった。
火のもつ明るさは、今でも盆の行事や祭りなどで見ることができる。迎え盆の八月十三日には、お墓から提灯に火をともしてきて、自宅の前でカンバ(白樺(しらかば)の皮)などで迎え火を焚く。「ジイサンバアサン、このあかりでおいでやれ」などと唱えながらオショウロウを迎える。このときの提灯やカンバを焚いた火のあかりによって、オショウロウは迷わずに自分の家にやってくるといわれている。そして十六日には、送り火を焚いてお送りするのである。
また、村祭りの宵宮(よいみや)でともされる灯籠(とうろう)は、昼間の幟(のぼり)とともに神様が降りてくる目じるしでもあり、祭りにはなくてはならないものである。火の明るさは、暗闇の行動を容易にしたばかりではなく、灯明(とうみょう)をはじめその明るさによって、生活している人と心のよりどころとなる神仏との接点を作りだしているのである。
このように、火はその燃える力によって災いを祓い、そして暖かな熱や明るさによって、人びとの暮らしを物質的に、精神的に豊かにしてきた。それだけ生活のあらゆる面に登場し利用され、なくてはならないものであった。しかし、使い方によっては、災いの源ともなるので、常に火との戦いでもあった。火のある暮らしのなかでは利害はいっしょに存在してきたのである。