松代町には、何度も大火に苦しめられてきた記録が残っている。『松代町史下巻』によると、寛永七年(一六三〇)から明治四十年(一九〇七)のあいだに、一六回もの類焼をともなった火災が起きている。なかでも明治二十四年の大火は、祖父母から直接伝え聞いたという人が少なくない。
町の人の話によると、その火は夫婦げんかで、ランプをひっくり返しだのが原因と伝えられている。しかし、『松代町史』には明治二十四年四月二十四日の午前二時に東条村(松代町)から出火し、西条村(同)や松代町の約七百戸を焼失させ、午前七時に鎮火したとあり、その原因については公債証書の貸し渡しの争いから起こったもので、怒って乗りこんできた相手によってランプの吊(つ)り手を切り落とされたために火災となったと記されている。しかし、火元となった家は、その後行方をくらましたとある。松代の人びとはこの大火により、火災の恐ろしさを身をもって体験し、それとともにみずからが火元となることの罪悪も身にしみて感じたことであろう。松代の各町でおこなわれている鎮火祭のなかには、この大火をきっかけに始められたものもあるという。
皆神(みなかみ)神社の鎮火祭は、かつてはゴマタキ(護摩焚)といわれ、明治の大火以前からおこなわれていた。なかでも毎年二月二十二日(現在は第二日曜日)におこなわれている鎮火祭が、もっとも古くからのものといわれ、馬喰(ばくろう)町・新馬喰町・紙屋町と五反田(松代町清野)の四町の祭りであることから、四町護摩とよばれていたころもあったという。現在では、五反田は参加していない。
皆神山の侍従大神には、火災に関する一つの話が伝えられている。先の『松代町史下巻』のなかに記された大火で、詳細な記録として残るもっとも古い大火に湯本火事(享保二年、一七一七)とよばれているものがある。この大火は表柴町の湯本家から出火し、町々の民家や城郭にも被害をおよぼしたといわれている。この大火の原因は、真田家家臣の湯本某というものが、領主の求めに応じ皆神山の侍従坊の木像の衣を、止めるのも聞かずもち帰ったところ、その下山の途中ですでに湯本家から出火していたという。各町で鎮火祭がおこなわれていたり、町の各地で秋葉さんとともに侍従大神がまつられているのは、このような大火とかかわる話が伝えられているためでもあろう。
明治の大火以降も、昭和二年(一九二七)に東条で、味噌煮(みそに)の火の不始末から、一八軒ないし二〇軒を焼失させた火災が起こっている。この火事も四月の風の強い日で、鶴の形に燃えたと伝えられている。この大火以降、東条般若(はんにゃ)寺では、それまで毎年七月十五日におこなわれていた鎮火祭を、火災のあった四月十七日におこなうようになったという。また、東条では玉依比賣命(たまよりひめのみこと)神社でも鎮火(ホシズメ)のお札を出しており、般若寺地区では二種類の火防のお札がまつられている。
このような二種類以上の火防信仰がおこなわれているところは多く、松代には秋葉神社とともに妙義大神や侍従大神がいっしょにまつられている町も少なくない。松代町では妙義大神や侍従大神は、ともに火防の神様として信仰されている。また、清野大村地区では、春は古峰(こみね)神社、秋に秋葉社の祭りがおこなわれ、正月には氏神様の前で消防団による鎮火の祈願祭がおこなわれる。西条入組地区でも、二月に皆神山の鎮火祭、春には三峯(みつみね)神社、秋には秋葉神社での無火災と感謝の祭典がおこなわれているという。たびかさなる大火が、火防にたいする信仰祈願をより強くし、現在に伝えられている。