明治二十四年には、長野町(長野市)でも二度の大火にみまわれていた。同年五月四日、東之門町から出火した火が、善光寺周辺の町々をすでに焼失させていた。そして約一ヵ月後の六月二日、今度は西之門町から出火し、五月の大火でわずかに残った部分をも焼き尽くしたという。『信濃毎日新聞』の明治二十四年六月四日付の記事によると、「火元は上西之門町の荒物商某の家より出火」とある。しかし、当時そこに住んでいたのは別の人で、火事の混乱から誤った情報が流れていた。火元となった場所には、その後金山(かなやま)社がまつられ、家主も変わったという。金山社は現在、弥栄(やさか)神社境内に移され、上西之門町で毎年大火のあった六月二日の夜にお祭りがおこなわれている。
二つの大火により、善光寺周辺の町々は全焼してしまい、そのあとには当時の唯一の防火建築であった土蔵造りの家が増えたという。その後は、この町が火元となるような大火は起こっていないが、外の人たちのあいだでは、火を出したところでは、まわりに知られないように暗闇で反省しながら祭りをやっているんだといううわさがあるという。しかし、このあたりは明治の当時は桜枝町からつづく一番にぎやかな商店街でもあり、昼間は忙しいために夜の祭事になったといわれている。
昭和五十四年(一九七九)ごろに、大本願が火災にみまわれたときに背中合わせの西町の人たちは、生きた心地がしなかったことだろうと町の人たちはうわさをしたという。上西之門町の人たちも火の粉が飛んできていたので、バケツをもって屋根に登ったという。この火事のあと、敷地内にある三峯社を勝手に動かしたから、火災になったのだといううわさが流れた。そして三峯社の遷座祭もやり直されたという。火災にたいして人びとの関心は非常に強かったのである。
火災には、物理的な原因があるはずであるが、いっぽうで信仰心やしきたりとのかかわりでうわさが生まれたりもする。一度火災の原因がうわさされると、火元となったところはもちろん、その話を聞いた周囲のものたちにも、火防にたいする信仰心が生まれる。うわさといっしょに信仰が広がるのであろう。自分の家では火事は起こさないようにしたいと思うと、今まで以上にしきたりが守られたり、祈願が強くおこなわれたりするのである。