秋葉信仰は、静岡県周智郡春野町にある秋葉神社の祭神である火之迦具土(ひのかぐつち)神を信仰するもので、市内の各地で小さな祠(ほこら)の形でまつられている秋葉社を目にすることができる。明治のはじめの神仏分離以前は、秋葉神社とともに、秋葉山大権現として別当をつとめた秋葉寺にまつられる修験者三尺坊(さんじゃくぼう)をおまつりしていたものも少なくない。江戸時代には関東あたりに流行し、火事の絶えなかった江戸では、城内にもまつられていたという。長野市内にまつられている石の小祠(しょうし)では、寛延四年(一七五一)の記年が残る稲里町氷鉋八幡(ひがのはちまん)社境内の「秋葉山」と記された石神がもっとも古いといわれている。
このような小祠は、村や集落ごとにまつられ、かつては村の入り口や広場などに建てられていたが、明治から大正にかけて進められた合社・合祠のなかで、村内の氏神様の境内に移されたものが多い。そして、その祭りも氏神様の祭礼といっしょにおこなわれるようになったところも少なくない。
江尸時代に北国往還松代通りの宿場町として栄えた町川田には、今もかつての宿場の北と南の入り口に秋葉さんが大きな石竿(いしざお)の上にまつられている。現在はそれぞれ町川田の下組と上組に分かれて祭りがおこなわれている。下組では毎年、町川田神社の春祭り(四月十日前後の日曜日)と四月二十三日の祭り、十月二十二日の秋祭りがおこなわれている。四月二十三日は、二十三夜さんと合わせた祭りで、御神体を新しくしたり社殿の注連縄(しめなわ)を張り替える。祭りの日は、秋葉さんの前にやぐらを組んで、「秋葉山大権現」の幟(のぼり)を立てる。祭典を取りしきるのは、若い衆とよばれる人たちで、春には米の粉で団子を作り、二十三夜さんと秋葉さんの前でこどもたちに配る。十月の秋祭りには秋葉さんに米を供え、それを袋に入れ、組内の各家に配りお賽銭(さいせん)をいただく。いただいたお賽銭はお酒になったり幟のお金になったりするという。また、秋葉さんの若い衆ではお日待講がおこなわれている。以前は、毎月一回かならず若い衆の当番の家で夕食後にお茶飲みの会がおこなわれていた。また、一月十日は初日待といってかならずおこなわれ、その日はお酒が振る舞われた。現在では一月十五日と二月の初午(はつうま)の日だけになっている。この日は、新築の家や嫁を新しくもらった家を登録しておいて順に宿としている。宿となった家では、お酒や料理が出され、それにたいし若い衆の世話人は、お世話になるあいさつのなかでお祝いのことばと火の用心の願いを口上する。
川田の大門では、アキカサンといい毎年九月十三日に祭りがおこなわれている。祭りの前日には、アキカサンの前にヤマを作るといって、社殿から大きな松の木を二本かけて、そこにたくさんの松の枝を渡し山のようなものを作る。この山の前に四本の竹を立て、注連(しめ)を張り、灯籠をともし、そのなかで祭りがおこなわれている。
松代町では毎月一日・十五日・二十八日になると、あちこちで秋葉さんの幟がたてられる。幟はそれぞれの町でまつっている石祠や石碑の秋葉さんに立てられるもので、幟の当番が決まっているという。
秋葉信仰は、このような小さな祠ばかりではなく、立派な社殿を建てて信仰しているところもある。西後町の十念寺境内には、かつて菊屋という酒屋が秋葉三尺坊をおまつりし、秋葉堂として建立したと伝わる立派な社殿の神社がある。三尺坊が菊屋に酒を買いにきたときに、主(あるじ)が名のある修験者であろうと酒代を受け取らなかった。それにたいし三尺坊が火難よけの御符などを授けて、その後長く菊屋が栄えたといわれている。現在でも、毎年三月二十四日と八月二十四日には祭りがおこなわれているが、菊屋が移転するまでは、店の若い衆が祭りの準備や掃除を取りしきっていたという。現在は町の祭りとなっている。
権堂町の秋葉神社は、この十念寺の秋葉神社の御分身をいただいて建てられたものといわれている。かつては現在西町にある西方寺が権堂町にあったときの秋葉堂であったものを移転したものといわれている。主に花街の信仰を集め、今のような立派な社殿が建てられたのは明治に入ってからである。このほかにも七二会(なにあい)や篠ノ井塩崎、鶴賀腰巻などに、木造の社殿をもつ秋葉神社が建てられている。
いっぽう、松代町立町では、神社も小祠もない秋葉信仰がつづけられている。松代町では多くの町で、毎年九月ごろに秋葉さんの祭りをおこなっている。この立町でも、毎年九月十五日に公民館に祭壇を設け、秋葉さんをおまつりする。ふだんは公民館近くの三つ星屋(呉服屋)が御神体をお預かりしており、祭りの前日に公民館におまつりし、この一日だけ町の人はお参りすることができる。かつては、石祠かなにかの形でまつられていたものが、建物の関係などの理由で取り壊された。それを町の人たちの親睦会のようなものとして復活させ、このような形の祭りとしてつづけられてきたという。今では、立町だけでおまつりするただ一つのお祭りとして、出産や嫁をとった家などの披露がおこなわれ、町の交流の場ともなっている。