人びとの暮らしは、より便利と思われる燃料があらわれることで変化してきた。
いろりは長いあいだ家庭の中心で、煮炊きや暖をとるために活躍してきた。その一角にはかまどが置かれ、火をめぐる日常の暮らしは、いろりがなくては成りたたない時代があった。しかし、昭和二十五、六年を境に、いろりの中のかまどはお勝手や台所に移され、煮炊きの中心はかまどへと変化していった。いっぽう、町場ではいろりの存在は薄く、ほとんど使われていなかった。そして台所ではかまどが使われ、農村部と同じように薪を燃料として毎日の煮炊きがおこなわれていたのである。
かまどを中心に煮炊きがおこなわれるようになると、いろりはしだいに姿を消しはじめ、昭和四十年代にはほとんど見られなくなった。煮炊きとしての役目がなくなったとともに、いろりを管理できる年寄りが少なくなり、煤(すす)を出して家屋を丈夫にしたり馬の餌作りをしたりするなどの必要性がなくなってきたことも、暮らしのなかから消えていった要因であった。
いっぽうで、かまどは毎日の食生活になくてはならないものであった。昭和二十五、六年ごろから、改良かまどなどという、煙突や銅壷(どうこ)(銅などで作った湯わかし器)をつけたものが使われはじめたが、そのころはまだボヤや薪を燃料としていた。昭和三十年代も半ばごろになると、こんろがあらわれる。はじめは石油こんろが使われ、一升瓶をもって石油を購入したが、一升あれば一週間ぐらいは使えたという。その後プロパンガスが普及し、昭和四十年前後には、嫁をもらう家などでガスを使うために台所を改造する家も多くみられた。石油こんろがあらわれてからも、御飯炊きにはしばらくはかまどが使われていた。ガス釜が普及すると、御飯炊きにもかまどは使われなくなり、薪を燃料とした煮炊きは日常ではなくなっていった。
いろりが使われなくなると、冬の暖房にはこたつやストーブが活躍することになる。かつてはこたつは、掘りごたつといって、茶の間の一ヵ所を掘りこんで、オキや豆炭などを入れて暖をとっていた。掘りごたつは今も使っている家も多いが、主婦が仕事に出るようになり、年寄りも家庭にいない家では、一日中火がくすぶっているようなこたつは危ないといって、電気こたつを使う家が多くなった。また、昭和四十年(一九六五)からの松代群発地震を境に、安全性の高い電気や器具を使うようになり、薪や炭を使う家が極端に減少したという。
ガスや石油、電気が十分に使えるようになると、それらの器具の便利さや清潔さなどで、現在ではほとんどの家で利用している。いっぽうで、それらの燃料を販売する側の責任はしだいに重くなっているという。日常的に使うのには安全で、過ちがない限り便利なものであるが、ひとたび間違った操作をすれば、なかなか素人には対処のしようがなく、薪の時代より厄介なものでもある。燃料が変わり、便利な道具があらわれたとしても、火や熱源が危険なものであることは変わらない。