長野県における霊山として周辺地域に信仰を集める存在としては、戸隠山と木曽の御嶽(おんたけ)があげられる。
戸隠山は農業の神として、また、地主神の九頭龍(くずりゅう)神の信仰として雨乞いに霊験があるとされ広く信仰されている。戸隠には奥社・中社・宝光社という三社の祭祀(さいし)形態が整い、宿坊も立ち並んでいる。その信仰は地区ごとの講という信仰集団を基盤としている。講には決まった宿坊があり、そこの聚長(しゅうちょう)や戸隠神社の宮司の祈祷(きとう)を受け、お札をいただいて地区や家の守護とする。講の組織としては代表者の講元がおり、その下に地区ごとに世話人をおいている形が各地の戸隠講には多くみられる。
こうした戸隠講にたいして、木曽御嶽講は多少異なっている。木曽の御嶽は、古くには「王のミタケ(御嶽)」とよばれ山岳信仰の対象とされていた。それがいつのころかオンタケとよばれるようになり、また、「山」をつけてオンタケサンとも称されるようになった。江戸時代後期から講による登拝が一般化してきて、現在でも木曽御嶽信仰の信仰基盤として講が存在していることは、戸隠信仰と同様である。信仰の拠点である木曽御嶽には、里宮が王滝口(王滝村)と黒沢口(三岳村)にある。そこにはもちろんそれぞれに宮司がおり、祈祷をしてもらう講中も少なくない。講組織としても講元・世話人がいて講中をとりまとめている。ただ、戸隠講と異なるのは、木曽御嶽講にはそれ以外に先達(せんだつ)といわれる宗教者が存在することである。なによりも講中の信仰的側面を取りしきるのは先達である。
木曽御嶽講の先達は、修行を積み、地域社会の人びとの悩みや災いごとの相談にのり、祈祷をしたり、修法や易によって鑑定をくだすなど、講行事の先導をつとめるだけでなく、さまざまな活動をしている。戸隠講でもかつて江戸時代には、御師(おし)配下の山伏を先達とする場合があったとされるが(『戸隠信仰の歴史』戸隠神社)、現在ではそういった形はごく少なく、とくに長野市域における講ではほとんどみられない。しかし、市域から戸隠山が比較的近いということもあって、戸隠講は広く分布し、かつては地区の全戸加入というところが少なくなかった。
いずれの講も市域における展開は無視することができない。本節ではこの両講をとりあげ、その活動と形態について明らかにしたい。