戸隠神社の周辺には三七軒の宿坊がある。江戸時代まで戸隠山は、顕光寺という天台宗寺院を中心に社僧が管理していた。明治時代になって神仏分離がなされ、戸隠大権現を戸隠神社と改めて神道によって管理運営していくこととなった。本院(奥院)、中院、宝光院と称されていた三院もそれぞれ、奥社、中社、宝光社と改称された。三院の衆徒(しゅうと)であった社僧は神職となり、戸隠神社の「聚長(しゅうちょう)」と称されるようになった。聚長という名称は、講中ではあまり使用されていないが、戸隠神社においてはかつての御師(おし)にあたる職名として現在も使用されている。
宿坊は中社、宝光社のそれぞれの神社の周辺にまとまって存在するが、どの神社の所属ということはなく、みんな戸隠神社の聚長がいる宿坊であり、また一般の人も泊まれる旅館でもある。これらの宿坊は、古くはそれぞれ坊号を称していたが、元禄十二年(一六九九)に院号に改められた。かつては本院周辺にも一二院あったが、正徳元年(一七一一)に中院に八院、宝光院に四院が、住居を移すことを認められて現在にいたっている。したがって奥社には宿坊はなく、さらにいく度かの変遷をへて、現在では中社周辺に二〇軒と、本坊とされる一軒を加えて二一軒、宝光社周辺に一六軒の宿坊が存在する。宿坊の主人は聚長として戸隠神社に奉仕しているのである。
聚長は全国各地に講をもっており、代参にかかわる宿泊やさまざまな接待を執りおこなっている。各宿坊は、地方ごとにだいたいの講の存在する地域が決まっているが、善光寺の宿坊のような郡割(ぐんわり)制といった厳密なものはない。戸隠講の分布は中部、関東、北陸地方に多い。遠方に講をもつ宿坊もある。ある聚長は北海道の講を管理しているが、明治期に北陸から移住した人たちの講だという。江戸時代では、地元の信濃が圧倒的で、それについで越後が多かった。さらにまた、「江戸の武家・町人がきわめて多く、佐渡・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・武蔵(むさし)・甲斐(かい)・尾張(おわり)・三河(みかわ)・美濃(みの)など信濃周辺の国々に分布しており、北は奥羽地方南部にのび、西では京都・大坂やその周辺、伊勢方面におよんでいる」という(『戸隠信仰の歴史』)。