田子の戸隠講

715 ~ 715

田子は八一戸(平成四年)の集落であるが、戸隠講は二つに分かれておこなわれていた。そのうちの一つの講には四五戸が入っている。少し前までは五〇戸以上の家が入っていたという。宿坊は宝光社の近くにある。昭和四十年ごろまで聚長が秋(えびす講のころ)に回ってきて講元の家に泊まってお祓(はら)いなどをしていた。先代の講元の時代は秋だけでなく春にも来たという。昔はお初穂として小麦を納めたといわれるが、第二次世界大戦中は米を集めて渡したという。聚長は田子から牟礼村のほうに回っていった。今では正月にお札(「戸隠神社御祈祷之璽」)やおみくじ(「戸隠山御神籤(おみくじ)」)、オハンジなどが送られてくるので、正月二十日ごろに講元が講員の各戸を回ってお金を集めて聚長あてに振りこむ。戸隠神社への参詣は、かつては月掛けの積み立てをして、年に一度代参をたてておこなっていた。

 田子のもう一つの戸隠講も、宝光社近くの宿坊を聚長とする講で、二〇軒ほどが入っている。

 また田子では昭和の初めごろ雨乞いとして戸隠に行った。戸隠の種池で酒樽(さかだる)に水を入れ、九頭龍権現で祈願をしてからずっと歩いてもってきた。途中で腰掛けると、そこに雨が降ってしまうというので止まらずに歩きつづけたという。水は田子神社にまず供えて祈願したといわれる。