丹波島(更北)は明治時代には三六軒ほどであったが、その後増えて一〇〇軒ほどになり、区画整理も進んで現在では一〇〇〇軒を超えている。丹波島の戸隠講は現在もつづいており、戦後の分家や移転してきた家以外はほとんど入っている。代表者として講元が一人いて、講の事務を取りしきっている。昔は歩いて戸隠まで代参が参詣していたというが、その後、車での参詣となり、近年ではあまり行かなくなったという。正月には講元をとおしてお札とオハンジ、おみくじが各講員に配布される。聚長には講元をとおして一人ずつお初穂を納めている。かつてはオハンジを農作業の目安にしていたが、農業もあまりやらなくなったりして受ける意味も薄らいだという。ただ戸隠講や、今でもつづいているオカノエ(御庚)講をとおして古くからのつきあいをつづけている。