長野市域においては、戸隠講に比べて木曽御嶽講は少ない。赤沼(長沼)や中川(松代町東条)、柴(松代町)などではかつて木曽御嶽講があって活動していた。
松代町柴の木曽御嶽講は講名を柴御嶽講といい、二〇年ほど前まで活動していた。この柴御嶽講は、柴の戸隠講のように古くからの家はみんな入るという形ではなく、一三〇軒ほどあった柴の家々のうち十五、六軒だけが入っていた。柴の産土(うぶすな)神の祭りは四月十五日と十月二十三日におこなわれるが、その翌日の四月十六日と十月二十四日に御嶽講の祭りがおこなわれた。柴には金井山という小高い山があり、その中腹に柴御嶽講の霊場がある。霊場には「(白川大神像)日月(じつげつ)講」「御嶽神社 八海山(はっかいさん)大神 三笠山大神」「摩利支(天)」と記された碑や不動像などがあり、「守幸霊神(れいじん)」「守教霊神」「守心霊神」「守信霊神」という霊神碑が建立されている。霊神とは有能な御嶽行者が亡くなったあとに贈られる号で、死後木曽御嶽に仕える神としての称号である。「○○霊神」というように称される。木曽御嶽講の神観念では御嶽大神がもっとも上位に位置する絶対的な神で、それにつづく神として八海山大神、三笠山大神が存在するが、その下位に位置して大神の神託を伝えたり、生活にかかわる身近なことを守護したり託宣をしたりするのが霊神と考えられている。
柴神社の祭礼の翌日にこの霊場に講員が集まり、のぼりを立てキリカザリとよばれる注連(しめ)を張って、先達を中心に祈祷(きとう)した。金井山にのぼりを立てると真島(更北真島町)からも御嶽信者が何人かお参りにきた。講中のなかに先達がいた時期もあったが、真島の大先達が来ていたときもあった。祈祷が終わると、前座(まえざ)と中座(なかざ)とよばれる行者で神を乗り移らせておこなう「お加持(かじ)」をしたこともあった。お加持は御座(おざ)立てともいった。それが終わるとその場でお神酒(みき)をいただいた。この柴御嶽講の祭礼には順番に講員が当番にあたり、準備や後片づけなどをした。春秋の年二回おこなわれていた講の祭りも、講が消滅する五年ほど前ごろから秋祭りの翌日だけになり、さらにそれもおこなわれなくなった。
木曽御嶽の登拝は、柴に先達がいなくなっていたこともあり、講が終わるころはすでにおこなわれなくなっていた。ただ、松代町道島のA先達に連れられ登拝したことはあったという。柴の先達だったB家の吉作(守信霊神)は昭和十九年(一九四四)に七六歳で亡くなっている。B先達は木曽御嶽登拝は毎年おこなっており、「オヤマ三十回」を超えたといい、その年ごとに木曽御嶽で受けてきたお札が三〇枚ほど、B家に残されまつられている。B先達が一人で御嶽登拝をおこなっていたが、年によっては講員も同行した。出発は蚕があがってからなので、登拝は夏のお山じまいの日であった。そのほかB先達は毎朝毎晩、家の祭壇の前で御嶽の祝詞(のりと)や経を唱えて祈祷していた。
B先達にはつぎのような話も伝わっている。木曽御嶽に講員とともに登ったときに、もう秋の山であったので天候は不順であり、かなりの霧で前方が見えないくらいであった。そのとき先達は「おれが晴らしてやる」といい、祈祷するとたちまちに晴れたという。また、有能な先達ということを聞きつけて相談にくる人もあった。たとえば、娘が行方不明で駆けこんできた人があって、そのときにはB先達が祭壇の前で加持をし、「今夜のうちに帰ってくる」とのお告げをくだした。お告げどおり娘は帰ってきたという。このように先達は単に御嶽登拝の先導をするだけでなく、民間宗教者として、さまざまな不都合なことが起きたときなど頼られる存在であった。