松代には「松代一心講」という木曽御嶽講がある。しかし、現在では講員も少なくなり、松代町道島のA先達を中心として、安茂里御嶽講と更埴市の生萱(いきがや)御嶽講との合同で木曽御嶽登拝をおこなっている。松代では一心講とは別に東条と清須町に御嶽講があって、それぞれ先達がいた。東条で御嶽講の祭りをするときには、清須町の講員が招待を受け、逆に清須町で講の祭りをするときには東条を招待した。こうした御嶽講のあいだでの交流があった。ただ、東条、清須町ともに先達が亡くなってから自然と消滅してしまったという。
更埴市の生萓御嶽講は一五〇年つづいている講だといわれ、御嶽登拝三〇回を超える大世話人(講元)を中心に講をまとめており、三つの講の中心的役割をになっている。生萱では毎年十月に御嶽講の祭りを執行している。
松代一心講は中町に世話人がいた。かつては毎月、掛金をして登拝費用を積み立てて、代表者が交代で登拝するという代参講だったという。三〇年ほど前に講元がいなくなってからは、講の形も崩れてきて、希望者だけがその年ごとに費用を納めて登拝をするだけになった。したがって登拝以外の在地の講活動は現在ではおこなわれていない。
安茂里も同様で、久保寺(安茂里)では山中の葭水(よしみず)という地籍に三笠山神社や木曽御嶽の石碑があって、信者らが御嶽講の活動をしていたといわれるが消滅してしまった。戦前までは、久保寺に村山(須坂市)の方から先達が来て、お布施として米などを納めていた。また地区にも「行者さん」とよばれる人がいて、木曽御嶽にもときどき行っていたという。戦後、御嶽講がなくなってしばらく過ぎた昭和五十四年(一九七九)に、安茂里のC氏が自家の地鎮祭を松代のA先達に依頼したのがきっかけで、C氏が登拝希望者を集めて安茂里御嶽講を組織した。安茂里で定期的に集まることはなく、生萱、松代の講とともに御嶽登拝にいく講である。
この三講社合同の御嶽登拝は、毎年七月に出かける。平成六年(一九九四)は七月二十七、二十八日であった。松代は七人、安茂里が五人、そして生萱から三人の参加があった。生萓の参加が少ないが、このときは生萓の祭りと日程が重なったためで、通常は一番多いという。平成五年の参加者は二七人であった。参加者が多かったときはバス二台で八〇人ほどで行ったが、近年ではだいぶ少なくなって二〇人前後であるという。先達は松代のA先達であるが、事務的なまとめ役は生萱の人が担当している。さまざまの諸経費と参加者の人数から一人あたりの参加費を算出するので、少ないと割高になる。費用が余ったときには生萱の木曽御嶽分社に寄付する。
初日は夕方六時にバスが生萱の講員を乗せて出発し、途中で松代、安茂里の講員を乗車させて木曽御嶽に向かう。木曽では王滝口から入り、夜一二時ごろには木曽御嶽の七合目の田ノ原に到着する。そこからすぐに登りはじめる。足に自信のない人は田ノ原で待っている。王滝口頂上で御来光を拝み、剣ヶ峰頂上で祈願してから、もとの田ノ原に下山する。それから少し休憩してからバスで帰路につく。車中一泊の行程である。