この講は山梨県北巨摩(きたこま)郡白州町(はくしゅうちょう)の駒ヶ岳を信仰する講であるが、木曽御嶽講や戸隠講もいっしょにおこなわれている場合がある。ここでとりあげるのは明山講といい、松本市の先達と須坂市の先達とともに、須坂市村山を中心に戦前に始められた講である。講のまとめ役の講元は長野市のD氏である。講員は須坂市在住の人が多いが、長野市や松本市にもいる。講には駒ヶ岳の信仰とともに木曽御嶽、そして戸隠の信仰もあって、それぞれ講員を集めて参拝している。したがって先達は木曽御嶽の先達でもあり、一定期間塩や塩気のものを口にしない塩断ちや、火をとおしたものを食べない火断ち、五穀を口にしない穀断ちなどの修行や、滝や川、井戸で水をかぶる水行(みずぎょう)などのきびしい行を積んだ行者であった。当初の先達は亡くなって霊神となっており、駒ヶ岳に霊神碑があるという。
駒ヶ岳講は昭和四十年(一九六五)ごろがもっとも講員が多く、夏の登拝には六〇人ほどが参加した。登拝は須坂、松本、長野とそれぞれ別個に駒ヶ岳の里宮に行って落ち合い、そこからいっしょに登る。まず里宮に泊まって、午前五時に起床し、七合目まで登る。そこの山小屋に泊まり、翌早朝に登りはじめて頂上で御来光を仰ぎ、その日に下山した。現在でも登拝はおこなわれているが、長野市の講元役をつとめていたD氏は高齢なので、経営している会社の従業員に代参してもらっているという。D氏は木曽御嶽講にも入っていたが、少し前に抜けた。ただ講での登拝は今でも毎年おこなわれているので、木曽御嶽講の講元役は別の人がおこなっている。
明山講での戸隠参拝は、毎年五月三十一日と、十一月二十日すぎの二回おこなわれる。戸隠神社参拝後、越志(おし)旅館(宿坊)に泊まって、翌日は富士の塔に参詣して帰る。
明山講では、一月十一日には須坂市村山で講の祭りがおこなわれる。講員のうち四〇人ほどが集まり、三〇分ほど先達とともに拝みをし、お札を配付したあと、宴会がおこなわれる。明山講は木曽御嶽講・甲州駒ヶ岳講・戸隠講と複数の講を内包しているが、先達は以下で記す木曽御嶽の先達と同系のきびしい修行をした行者であった。講員は須坂が中心であるが、市域を越えて広く分布しているのが特徴である。