御嶽行者

722 ~ 723

木曽御嶽信仰において先達、あるいはそれに準ずる宗教者がかかわっていることは、その信仰史をみると理解できる。木曽御嶽は中世には修験(しゅげん)がかかわっていたが、その勢力が衰えると重潔斎(じゅうけっさい)をした道者(どうじゃ)と称される人びとだけに登拝が許されていた。それだけ霊山としての信仰形態を守っていたということができるが、そういった信仰形態を無視して軽潔斎で登拝を強行したのが尾張の覚明(かくめい)行者で、天明五年(一七八五)のことであった。その後、武蔵の普寛(ふかん)行者によって王滝口が寛政四年(一七九二)に開かれた。それ以降、御嶽信仰は、覚明行者の影響を受けた信徒や普寛行者の弟子らによって各地域に布教され、講が結成されていった。それには、布教した行者が地域社会で講を結成し先達となったり、御嶽行者が地域社会に弟子を作り、その弟子が先達となって講を先導するようになった場合などがあった。

 御嶽行者は木曽御嶽を信仰の対象としているが、木曽御嶽を活動の基盤としているわけではない。地域社会にいて講中を先導しつつ、ふだんは在地で修行する、というのが御嶽行者であった。各地域の御嶽行者をみてみると、農業や商業など生業のかたわら修行しているといった人が多い。その信念としては、水行などと同様に稼業に誠心誠意取り組むことが修行であると認識している人が多い。

 講元は講の事務的な側面を取りしきるのにたいして、先達は講の宗教的側面を担当する。御嶽行者が講の登拝や講の在地での信仰的活動を取りしきっているときに、先達と称される。先達がいなければ講の儀礼が継続できないとされる。御嶽講にとっては、それだけ重要な存在となっている。そこで、ここでは御嶽行者、御嶽先達をとりあげ、在地での活動の一側面をみることにする。


写真2-145 御嶽神社里宮(王滝村 平成4年)