つぎにとりあげるのは、松代町柴のB家でおこなわれたアクマッパライ(悪魔祓い)とよばれる家祈祷(きとう)である。松代の柴では前述したように戸隠講があるが、かつては木曽御嶽講もあった。だが、先達がいなくなり、すでに述べたように二〇年ほど前になくなってしまった。したがって現在、柴の御嶽講活動はおこなわれていないが、柴のB家はかつてこの御嶽講の講員であった。現当主の曾祖父は「柴御嶽講」でもふれた御嶽行者、吉作(守信霊神)である。守信霊神もイッポン座をおこなっていた霊験のある行者であった。そういったこともあり、B家では木曽御嶽の信仰に厚かった。
当家は農業をしており、農具の整備のため鍛冶屋をしていたA先達とつきあいがあった。その鍛冶屋さんが御嶽行者と知ると、先代の守信霊神のことを話し、家のお加持をしてもらうことにした。このようにして御嶽行者に家祈祷を依頼してから三〇年が経つという。
B家でのアクマッパライ(お加持)は毎年一月中に執行される。平成八年(一九九六)は一月十四日の正午前ごろからおこなわれた。儀礼は厳粛におこなわれ、かつてある人が、先達の経文を録音させてくれというので許したところ、三笠山様が降臨し、「御嶽の行はそんな安易なものではない」とのおしかりがあったともいう。
アクマッパライは家の奥にある床の間と仏壇がある部屋でおこなわれた。まず床の間に御嶽の掛け軸が掛けられ、前にはお盆に塩や水などの供物(くもつ)が先達によって供えられた。また、「御嶽山十二権現」「御嶽山清滝不動明王」というお姿が入ったお札(二枚)が並べられる。先達は白い行衣で、頭には宝冠(ほうかん)を巻いており、祭壇の正面に向かって座り、B家の家族はそのうしろに正座して座る。参加したのは、B家当主夫妻(四十歳代)と当主の父母(大正五、六年生まれ)、当主の娘さん(中学生)、および嫁に出ている当主の妹である。B家には当主の長男がいるが当日は学校の部活動の試合のためいなかった。
先達が御嶽の祝詞(のりと)や経文を唱えているうちにもった幣束(へいそく)が上がり、神がかりして形相が変わる。この儀礼は御座立てで、先にふれたイッポン座と称される御座である。本座は最低二人、すなわち神がかりする中座と、神がかりさせたり神のお告げを聞き取る役の前座によっておこなわれるが、先達は主に独力で神がかりしてお加持をする。その場合、おりた神のお告げを聞いたり、相手をしたりする役は依頼者や、その場に居合わせた儀礼をよく知った人がなる。A先達の御座はかなり激しく、昔は神が乗り移ると飛びあがり、くるりと回転したという。ただ、年とともにそれは顕著ではなくなり、幣束が上がって形相が変わることで神がかりが参加者に認知される。前座の役である問い口は、当主の父親(大正五年生まれ)であった。
まず降臨して先達に乗り移ったのは清滝不動明王である。先達によれば「清滝不動が来ないと霊神が来ない」といい、御座においては重要な存在となっている。また日ごろの活動においても先達の守護神的存在となっている。神がかりすると先達は九〇度回転し、祭壇と平行して向き直る。つづいて十二権現が降臨した。十二権現は一五歳までのこどもを守護する神だという。このときは娘さんが先達にお加持してもらった。お加持とは先達の前に出て正座し、前かがみになって、頭や肩、手などの身体を先達の幣束でたたいてもらうことである。それによってけがれを祓(はら)ってもらい、好運を授けてもらう。
さらにB家の先代で、先達であった守信霊神が降臨した。そこで家族全員がお加持を受ける。問い口になった父親がまずお加持を受け、つぎに母親、当主夫妻、娘さんとつづいて、先達の幣束で身体をたたいてもらっていく。当日いなかった長男には日常着用している衣服を出して、それをたたいてもらうことによってお加持をした。嫁に出ている妹もお加持をしてもらい、さらにもってきた長男・長女の衣服を提示してお加持を受けた。そのときに霊神にたいして、「長男と長女がともに就職をひかえておりますのでよろしくお願いします」とお加持の祈願内容を告げ、これにたいしてはうまくいくであろうとの内容のことばが告げられた。こうして守信霊神は先達から離れていった。
その後、参加者で経文を唱えていくうちにしだいに先達は元に戻っていく。そして御座のお加持は終わるが、終わっても先達の両手からは幣束が離れない。そこで当主が先達の幣束をもって力を込めて引き抜いてやり、しばらくすると先達も気を取り戻したようであった。こうして約一時間にわたるアクマッパライのお加持が終了した。
お加持が終了すると、その部屋でお神酒(みき)を先達と参加者のみなでいただいて、さらにごちそうが出され昼食を食べてから先達はB家をあとにした。