丹波島の御嶽行者

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江戸時代、丹波島は北国街道の犀川の渡し場をひかえた宿場で、東西六町に六六軒が屋敷割りされていた。また、丹波島宿の本陣は加賀藩前田家の御定泊宿であったという。この丹波島に一人の御獄行者がいる。現在では足が不自由になったため頼まれて祈祷をすることはなくなったが、かつてはさまざまの祈祷をおこなっていた。

 丹波島には第二次世界大戦前まで木曽御獄講があって、行者も数人いたという。戦後、御獄講の組織はなくなったが、御嶽行者を先達としてときどき木曽御嶽登拝に行くこともあった。御嶽行者のE先達の家の前には小祠(しょうし)があり、西山大天狗(てんぐ)がまつられている。そのためE家は「お天狗さんのうち」とよばれている。E氏はこの家で昭和八年(一九三三)に生まれた。お天狗さんの小祠はE先達が生まれる二年前の昭和六年にまつられた。E先達の父親も御嶽行者であり、同じ修行をしている仲間や近隣の人たちの寄付によって小祠を建立したのである。小祠が建てられたときの記念の写真も残っている。祠(ほこら)の前に板を敷き、四隅に竹を立てて注連縄(しめなわ)を張り、そのなかで笏(しゃく)をもった神職姿の人や行衣を着た人、羽織袴(はかま)姿の近隣の人など三五人が写っている。


写真2-147 小祠内の西山大天狗の祭壇 (丹波島 平成8年)

 E先達の父親は昭和三十七年に亡くなった。行年七〇歳であった。父親はかなりきびしい行をして行法を身につけた大先達だったといわれている。そんなことからE家に小祠がまつられたのである。父親は、上高井郡仁礼村米子(よなこ)(須坂市)の滝山不動の行場に修行に行っていた。また、その近くには西山という山があり、天狗がまつられていた。滝山不動(滝山不動寺)は「米子の不動さん」とよばれ、奥の院は五月ごろに祭りがあって、近郷の行者が集まる。また、西山大天狗は地元のある家が中心となって春と秋に大祭がおこなわれていた。また米子大瀑布(ばくふ)という大きな滝がある。父親はそこに頻繁に出かけて水行をしており、息子のE氏も父親に連れられて修行や祭りのさいに米子の不動さんや西山に行ったという。父親はとくに西山大天狗の信仰が厚く、守護神としていたので、自分の家に分祠(ぶんし)したのであったが、木曽御嶽も信仰の対象としており、毎年ではないがたびたび御嶽に行っていた。何度かE氏も連れられて登ったり、清滝で水行などをした。そのころ丹波島では御嶽講があって父親が先達だった。そして先達やほかの行者は御嶽教にかかわっていたという。

 行者の息子として小さいときから、行や祈祷を見て育ったE氏は、二〇歳過ぎから修行を始め、三〇歳過ぎころには父親の力を借りてカジツケができるようになった。カジツケとは、神仏がくだってくるようにほかの行者が経文を唱えるうちに神がかりになる方法である。そのころは毎日朝昼晩の三回、家の前で水をかぶり行をした。行は断食行などもあるが、水行が一番効力があると考えられている。そのほか、祝詞、経文を覚えることも行の一つである。

 父親が亡くなると一人人立ちして行者になることを決心し、一、二年後には一人でお加持ができるようになった。つまりオンベと呼ばれる幣束をもって一人で読経しつつ、修行により得た霊力によって守護神を降臨させることができるようになった。E先達の守護神は父親と同じ西山大天狗である。

 加持とは「御座立て」ともいい、父親やほかの行者も頻繁におこなっていた。ほかの行者の力を借りず一人でできないと一人前の行者とはいえない。それにはきびしい修行が必要となるので、厳冬の水行なども欠かさず遂行していた。そして一人前の行者と認められるようになると、さまざまな依頼がくるようになった。

 嫁取りや婿取りに関してその相手でよいか、あるいはどの方向の相手がよいかといったお伺いや、家のサワリ(障)、商売に関すること、受験、病気などがあった。とくに身体の具合がよくないといった相談は多く、近くに医者や診療所、病院などもなかったので、こういった行者にみてもらうことが多かったという。行者であった父親も同様のお伺いの依頼を受けていた。依頼者が訪ねてくることもあれば、行者が出向いていくこともあった。お伺いの内容を聞くとお加持をする。

 加持をするときにはさきにもふれたように、一人でおこなう御座立てをする。オンベをもって経文や御真言を唱えているうちに、西山大天狗がおりてきて乗り移り、お伺いごとを聞いて天狗様として一人称で答える。そして体調が悪い人にはオンベで身体をたたいていく。これをおこなうと身体がたいへん軽くなるという。体調があまりよくなくて、とくに信心している人には「刀加持」をおこなった。刀加持とは護身刀(日本刀)で患部を切りつける加持であるが、信心している人は決して皮膚が切れることはないといわれる。この刀加持はきびしい修行をした行者が、信仰心の非常に強い信者にしかできない加持である。また、父親の先達が独自に開発し、それを継承したという加持に「九字の大法」というのがある。これは紙に祈願内容を独特の文字で書いてこよりにして、御獄のオンベにかざし念じると、御神託が授かるという祈祷法である。そのほか、地鎮祭、鎮守のお祓(はら)いや家祈祷も頼まれた。そういった場合、祈祷によって異なるが大祓(おおはらえ)や六根清浄(ろっこんしょうじょう)の祓、不動経などを中心に唱える。また、お伺いごとで本人がいない場合には、家族がもってきた写真や衣服でお加持をしたこともあった。

 このように御獄行者として活動していたE先達であったが、交通の便がよくなって病院にもすぐに行けるような時代になり依頼者も減っていった。修行もつづけていたが、年をとって身体の具合もよくないので依頼ごとは受けるのをやめている。木曽御獄も昭和四十四年に登拝したのが最後だという。しかし、E家の西山大天狗と木曽御獄の三座神(御嶽大神・八海山大神・三笠山大神)がまつられた祭壇の前や、屋敷の西山大天狗の祠では毎日祈祷を続けている。西山大天狗は毎月二十五日が祭日とされ、付近の人や、父親の代にお世話になったといって久しぶりにお参りにくる人などが今でもあるという。