浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)と長野市の結びつきを示す確実な史料は、今のところ見いだされていないが、善光寺との関連でいくつかの伝承がみられる。専修(せんじゅ)念仏の停止により越後に配流(はいる)された親鸞は、流罪を解かれたあとの建保(けんぽう)二年(一二一四)に越後を出て関東に向かう途中、善光寺に滞在して参籠(さんろう)し、さらに戸隠山に登拝したと伝える。この折に親鸞が止宿したのが善光寺一山の堂照坊という。堂照坊には、親鸞が戸隠山を訪ねた帰り、路傍の笹(ささ)をとって書いたといわれる「笹字の名号」が伝えられ、また晩年の親鴬の抜け落ちた歯をもらいうけたという歯骨(しこつ)が保管されている。
善光寺本堂の妻戸台のわきに、「親鸞聖人お花松」といわれる大きな松の生花が飾られている。この松は「お松講」によって立て替えられている。この松がいつごろから飾られるようになったのか不明であるが、親鸞が善光寺に参籠したことを示すシンボルの一つとみられているのである。また、善光寺の経蔵の西、弁天坂の上り口に小さな堂がまつられ、中に「親鷽聖人爪彫(つめぼ)りの阿弥陀」といわれる石仏が安置されている。この石仏は、親鸞が善光寺に参詣したときに、爪で彫ったものといわれている。かつて病気平癒祈願のために、この石仏の拓本をとってもち帰るということがおこなわれていたという。
このように親鸞と善光寺の結びつきは伝承のなかにしか見いだせないが、親鸞がみずから「善光寺如来和讃(わさん)」を作っているので、善光寺にたいして何らかのかかわりをもっていたものといえよう。