浄土真宗の門徒が、親鸞とその高弟二四人の遺跡を巡拝する「二十四輩詣(にじゅうよはいもうで)」がおこなわれてきた。親鸞の関東教化時代の高弟が中心であり、二十四輩を開基とする寺院が巡拝の対象になっている。この遺跡巡拝は、室町時代末期に成立し、盛んになるのは江戸時代の元禄(げんろく)期(一六八八~一七〇四)以降といわれる。長野県では二ヵ寺が入っており、いずれも長野市の寺院で、第七番の南堀(朝陽)の長命寺と第一〇番の松代の本誓寺である。長命寺は高井郡井上城主の子息といわれる西念(さいねん)坊の開基とされ、本誓寺は東北地方の念仏布教につとめた是信(ぜしん)坊の開基とされている。本誓寺には「二十四輩第十番護法堂」がまつられている。なお、本誓寺の本尊は「瀬踏み阿弥陀」とよばれ、善光寺如来の夢のお告げによって親鸞が刻んだ尊像と伝える。親鸞がこの尊像を笈(おい)に入れて背負い、千曲川を渡ろうとするが、増水のためにできない。そのとき一人の童子があらわれて先導し、無事に渡ることができた。対岸に着くと童子は笈の中に消えてしまったという。
篠ノ井塩崎の康楽寺は、真宗寺院の古刹(こさつ)の一つとして知られているが、開山は親鸞の越後配流のときに随行した西仏(さいぶつ)坊という。西仏坊は、小県郡の海野(うんの)一族の出身と伝える。康楽寺二世の浄賀は、絵巻物の「親鸞聖人絵伝」の絵師であったことで知られている。康楽寺が現在地に堂宇を建立(こんりゅう)したのは、弘治(こうじ)年間(一五五五~五八)のことである。長沼の西厳(さいごん)寺は、下総(しもうさ)国飯野(いいの)城主で親鸞に帰依(けえ)して出家した空晴を開山とする。現在地に居を移しての創建は、暦応(りゃくおう)元年(延元(えんげん)三年、一三三八)という。この西厳寺には、蓮如(れんにょ)が二度ほど立ち寄っており、文明(ぶんめい)四年(一四七二)には二ヵ月間滞在している。なお、西厳寺には蓮如像を安置する蓮如堂があり、毎年四月二十五日に蓮如忌がおこなわれている。
西尾張部(古牧)の光蓮(こうれん)寺は、少し複雑な経緯をたどっている。井上頼重・頼光の兄弟は比叡山延暦寺で出家したあと、下総国磯部で親鷲の弟子になったという。その後、信州にきて兄頼重は水内郡中俣(なかまた)(柳原)、弟頼光は同郡西久保(古牧)にそれぞれ一寺を建立していずれも勝善寺と称する。西久保の勝善寺は、永禄(えいろく)四年(一五六一)の川中島の戦にさいして西尾張部に移ったという。この西尾張部勝善寺の一一世了順は、中俣勝善寺の教了とともに、本願寺が織田信長と戦った石山合戦(一五七〇~八〇)に参加して戦死したといわれる。そのため一時、中俣勝善寺に合併されるが、一二世の行心の代に、本願寺から光蓮寺の寺号をうけて現在地に再興したという。中俣勝善寺は須坂市のほうへ移っている。
松代町の證蓮(しょうれん)寺は、康楽寺の二世の浄賀を開基とする。二世浄心の代に證蓮寺と号するようになったという。慶長年間に東条村(松代町)から現在地に移っている。おそらく、城下町の形成にかかわる移転と思われる。證蓮寺には、江戸中期の藩主真田幸弘(ゆきひろ)が描いた「親鸞聖人御影」が残されている。また、松代町西寺尾の西法寺は、もとは真言宗の寺院であったと伝える。常陸(ひたち)国(茨城県)稲田で親鸞に帰依した兄弟、西如(さいにょ)坊と西教坊から数えて七代目の西勝坊が当地にきて、真言宗の無住寺院を浄土真宗に改宗して再興したという。
こうした寺院の伝承の多くは、寺伝というかたちで伝えられており、明確な史料の裏づけのできないものを含み、さらに寺院の歴史を権威づけるために開創年代をより古い時代に求める傾向がみられたりもする。しかし、いくつかの寺伝を重ね合わせてみると、宗祖親鸞との結びつきを強調することで発展してきた浄土真宗の展開の一端が、おぼろげながらみえてくることも確かなのである。