親鸞が没してからのちの南北朝時代(一三三六~九二)には、信濃国に三つの系統の門徒団が存在した(千葉乗隆『中部山村社会の真宗』参照)。まず第一は南信濃の伊那郡飯田の寂円(じゃくえん)・善教・頓妙(とんみょう)を中心とする門徒、第二は常陸国北郡の法善の法系に属する西仏・浄賀・了智などを中心に発展した門徒、そして第三は下総国飯沼の善性の法系をひく浄興寺と磯部六ヵ寺などを中心に構成された門徒である。
これらの系統のうち第一の寂円系はのちに衰えをみせたようで、第二と第三が主流となっていったのである。寺院の伝承でとりあげた康楽寺や長命寺、證蓮寺などは第二の系統であり、西厳寺や光蓮寺などは第三の系統である。西厳寺は磯部六ヵ寺の一つであった。善性系の浄興寺は文永(ぶんえい)四年(一二六七)に水内郡長沼村に居を置くが、その後各地を転々として越後国高田城下に落ち着くことになる。現在、真宗浄興寺派の本山である。のちに第二と第三の系統に加えて新たに勢力をのばすのは、親驚二十四輩の一人である是信坊の系統である。本誓寺は是信坊系の寺院で、室町時代には有力寺院の一つになっている。
近世の一七世紀初頭に、本山の本願寺は東西に分かれ、西本願寺(浄土真宗本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)に二分された。これによって、信濃国の真宗寺院も分かれることになった。先にあげた康楽寺、長命寺などは本願寺派、西厳寺・光蓮寺・證蓮寺・本誓寺などは大谷派に属している。
真宗寺院の発展のなかで注目されるのは、有力寺院が境内に寺中(じちゅう)(地中)とか寺内(じない)とかという付属の坊を形成していたことである。たとえば篠ノ井の康楽寺は八ヵ寺、長沼の西厳寺は四ヵ寺、西尾張部の光蓮寺は一ヵ寺の寺中があった。明治以降、寺中の多くは本坊から独立した寺院となっていった。