報恩講

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報恩講は親鸞の忌日におこなわれる報恩のための法要で、真宗寺院で広くおこなわれている。親鸞の忌日は十一月二十八日で、二十二日から七日間の法要がおこなわれる。なお、親鸞の忌日を太陽暦に換算すると一月中となるので、本願寺派や高田派などの寺院では一月九日から十六日までの日程でおこなわれている。ただし、各地の寺院では、地域の事情によってさまざまな日取りが選ばれている。

 西尾張部の光蓮寺では、報恩講を十一月第三の土・日曜日の二日間でおこなっている。昭和三十年代の中ごろまでは、十二月二日から四日までの三日間であった。二日間の門徒のお勤めは、初日の夜の初夜勤行(ごんぎょう)と二日目のお朝事(あさじ)、そして午後一時からのお日昼(にっちゅう)の三回である。お斎(とき)(食事)は、初日の夜と二日目の昼の二回出され、お日昼のお勤めが終わると精進落としとして後引(あとひ)きのお斎が振る舞われる。三日間の日程でやっていたときは、二日間はお内仏(ないぶつ)(各家々の仏壇)の報恩講で、三日目は寺の報恩講だといっていたという。南長野の本願寺長野別院の報恩講は、十二月一日から四日までの四日間である。五分一(ごぶいち)(古牧高田)の門徒の人たちは、この期間中の一日だけお勤めをして、ひじき、けんちん汁などのお斎をいただくことになっている。かつてはお斎米を集めて寺へ届けていたという。

 浅川西平(にしひら)の報恩講は、公民館(説教所)に住職を招いておこなうかたちをとっている。区長が中心となり、門徒だけでなく他宗をも含み、集落をあげての行事になっている。昭和三十八年ごろまでは十二月中旬に二日間の日程でおこなっていたが、現在は土曜か日曜の都合のよい日を選んで一日ですませるようになっている。二日間のときは、餅(もち)をついてオカザリを作っていた。区長は十二月に入ると各家からオカザリ米の糯(もち)米を集めておき、報恩講の初日の午前中に世話人の家の女衆が区長の家に集まって餅つきをした。世話人の男衆は説教所の仏具などを飾りつける。夕食後の八時に若衆頭が説教所前で板木(はんぎ)をたたいて一番目の合図をする。二番目の板木による知らせは、住職が説教所に到着したときである。第二次世界大戦の末期ごろまでは、住職は世話をする家に一泊していたという。二日間の日程のとき、お勤めは初日の夜と翌日の朝の二回で、説教もおこなわれた。現在、お勤めは一回になっている。オカザリの餅は、オナガレといっておすそわけとして参加者に配った。戦前までは、よそへ嫁に行った人たちもお参りにきていたという。