職人を中心にした太子講は、長野市でもいくつか見られるが、真宗でも境内に太子堂をまつっている寺院がある。親鸞が京都の六角堂に参籠(さんろう)したときに聖徳太子の夢のお告げをうけたという伝承や、親鸞が聖徳太子和讃(わさん)を書いていることなどから、真宗と聖徳太子信仰との結びつきが強調されてきた。光蓮寺は、寛政(かんせい)九年(一七九七)に聖徳太子像を勧請(かんじょう)してまつるようになった。一九世の住職了恵が江戸の浅草別院に輪番として出仕していたときに水戸公を介して入手したものという。太子講奉讃法要は、昭和三十五年(一九六〇)まで四月二十二日にしていたが、その後永代経と同じ春彼岸の中日にやるようになった。太子講の講員は近隣の大工・左官、建具・箪笥(たんす)などの職人が中心である。太子堂にまつる聖徳太子像は、七年ごとに御開帳がおこなわれる。職人たちが新しく作った山車(だし)を出して、稚児(ちご)行列でにぎわう。