五分一集落の因(ちなみ)講は、江戸時代からおこなわれてきたようである。ちなみ(因)とは、仏縁によって親しく交わることを意味している。東本願寺(大谷派)第二〇世の達如(たつにょ)からうけた万延元年(一八六〇)の年号のある相続御伝抄をはじめ、明治四年(一八七一)に第二一世明如から、明治四十三年に第二二世鏡如からそれぞれうけた御消息を伝えている。また、因講では六字名号をまつっているが、これは井原家の先祖が明治の初めごろ、西町の古物商から買い求めてきたものを講中へ寄贈したものという。
明治末期の五分一の戸数は五五戸で、宗派別にみると、真宗四五戸、浄土宗七戸、曹洞宗三戸であった。因講は宗派をこえて、集落の全戸が参加するかたちをとっている。門徒の菩提寺は、本願寺長野別院(本願寺派)、東町の康楽寺(同)、南高田の西光(さいこう)寺(大谷派)、吉田の善敬(ぜんきょう)寺(大谷派、現在は単立)の四ヵ寺に分かれている。世話人二人は、本願寺派と大谷派の双方の家から一人ずつ出した。手伝い役は、伍長組(ごちょうぐみ)(隣組)から一人ずつ出すことになっていた。
五月三日は氏神の守田廼(もりたの)神社の春祭りで、その日の夜から四日にかけて因講をした。若い衆が中心になって春祭りをおこなうとともに、因講にも積極的にかかわっていた。因講のヤド(宿)は年番の世話人の家がつとめる。また、因講のときに招く僧侶(そうりょ)は、ヤドを提供する世話人の菩提寺の住職に依頼することになっていた。若い衆がヤドの家へ集まり、床の間に仏壇をつくって六字名号をまつり、供え物を飾る。お勤めは三日の夜と四日の午前中の二座で、御取越(おとりこし)(在家でおこなう報恩講)のかたちでおこなった。因講の開始は、若い衆が高張(たかはり)提灯をともし、板木をたたいて知らせた。板木による合図は三度おこない、一番から三番まであった。「三番せ」は始まる一五分ぐらい前にたたいた。参加者は講中だけでなく、親戚縁者や近郷の門徒の人たちも集まり、説教師を招いての説教もおこなわれたのである。
昭和十六年(一九四一)に公会堂を兼ねた名号堂を建てた。因講のヤドの提供が困難になってきたために、講中では名号講という無尽をおこなって建築資金をためたのである。完成後、因講は名号堂でおこなうようになったが、戦時体制の影響で五月四日の午前中の一座のみとなり、参加者も年寄りが中心になった。
戦後になると、六〇戸ほどの講中を三つの班に分けて、各班から手伝い役を出すようになった。世話人は従来どおり二人である。昭和五十六年から四月の第三日曜日におこなうようになった。ただし、住職の都合で変更されるときもあるという。板木による合図は、世話人が四ヵ所の地点でたたいて知らせている。お勤めのときには、戦没者慰霊とその年に亡くなった人の法要をあわせておこなっている。