旧浅川村の西平には、公民館を兼ねた説教所があり、ここに阿弥陀如来像がまつられている。この尊像は、かつて西平にあった西光庵(さいこうあん)という真宗寺院の本尊仏を移したものである。『浅川村郷土誌』(昭和十年)には、西光庵について、「真宗本願寺派。創建年月不詳。当所半左衛門祖先敷地を寄附し、東西両派掛持道場として僧西人開基とすと。明治六年三月無檀なるを以て廃寺となる」(句読点を加える)と記されている。西光庵は真宗の道場であり、しかも大谷派と本願寺派の掛け持ちの道場であった。明治六年(一八七三)以降も道場としての機能は維持され、明治二十四年に寛祐という僧の代に実質的な廃寺となったようである。寺側から西平の組(伍長組)で守ってくれないかという依頼があり、尊像などを継承したものという。
当時、西平集落は二三戸で伍長組は五つに分かれていた。各組から二人ずつ選出した一〇人の世話人を立て、明治二十九年に説教所を建てた。第二次世界大戦の終戦までは、世話人を交替せずに固定した家から出し、区長は一〇人の世話人のなかから選出することになっていた。なお、戦時中までオヨリコ(お寄講)といって、世話人たちが年一回本山からうけた六字名号の掛け軸をまつる行事をやっていた。掛け軸を広げて飾ることからオコシノベともいっていた。一〇人の世話人は西平の区長を出す集団として機能し、オヨリコをおこなうなど、強い結びつきをもっていたのである。
明治二十四年当時、西平集落二三戸の宗派は、浄土真宗が二〇戸であり、あとは曹洞宗二戸、浄土宗一戸であった。真宗以外の三戸は、近隣の集落から移ってきた家という。長野市の山間部に西平のような門徒中心の集落が孤立して存在していることについて、西平がかつて加賀の領地であったなどといわれたりしているが、加賀門徒の流れを汲(く)むかどうかについては不明である。
説教所にまつるお如来様(阿弥陀如来像)のお勤めは、西平の各家が「御膳番(ごぜんばん)」といって一週間ずつ交替しておこなっている。この行事は明治以来つづけられてきたものという。御膳番にあたる家では、お如来様に御飯を供える御仏器と、当番の順序を記載した順番帳を納めた厨子(ずし)を預かり、毎日朝食前に説教所へお参りをする。お如来様には御飯とお花を供える。月曜日から日曜日までのお勤めを終えると、つぎの御膳番の家へ厨子を渡していく。現在、西平の三六戸で御膳番を回している。御膳番の順序は図2-39に示したとおりである。一戸のみ参加していないが、ほぼ集落全体の行事としておこなわれている。明治二十四年の二三戸のうち七戸が他出しているが、分家および新住民などの増加によって現在は三七戸の集落になっている。門徒の数が多数を占めるとはいえ、曹洞宗や浄土宗などの他宗や昭和三十年代以降に移住してきた家々をも含みこんだ行事として続けられているのである。
説教所をめぐる行事は、御膳番のほかに八月の盆法会(ほうえ)と十二月の報恩講がおこなわれている。西平の報恩講については、すでに真宗門徒の行事のところで述べておいた。西平のお盆は八月十三日から十六日までで、盆法会の日取りは、十六日から十八日のうちから一日を選んでいる。門徒の家だけでなく、報恩講と同じく他宗の家も参加しており、集落全体の行事となっている。
説教所には、お如来様の左右に親鸞の絵像の掛け軸と西本願寺門主の絵像の掛け軸を飾る。これらの掛け軸は、ふだんは区長宅に保管しているものである。盆法会には住職を招いて、お勤めのお座と説教がおこなわれている。西平の門徒の菩提寺は、吉田の善敬寺(元大谷派、現在単立寺院)、東町の康楽寺(本願寺派)、南長野の本願寺長野別院(同)の三ヵ寺に分かれている。そのために、行事を中心となってになう区長が属する菩提寺の住職が招かれることになっており、区長が交替すれば世話になる寺も変わることになる。西光庵時代の両派掛持道場としての性格が継承されているのである。