はじめに

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 長野の祭りは全国的な祭りの変化の趨勢(すうせい)とあいまって変化をとげてきた。太平洋戦争期前後の祭りをみると、昭和十七年(一九四二)には、前年までおこなわれてきた灯籠(とうろう)揃いを中止したが、お先乗りを先頭に各町出役四人ずつ中央通りをあがり弥栄(やさか)神社で戦勝祈願をおこなっている。昭和十八年から二十年までは、戦争のために祭事がおこなわれただけである。御祭礼に屋台が再登場するのは昭和二十五年になってからであった。しかし、屋台は巡行されることはなくて据え置きであった。それでも屋台の登場は一三年ぶりであった。俄物(にわかもの)の巡行は昭和二十七年から復活したが、その後しばらくは、権堂の大獅子(おおじし)と踊り屋台が先頭になり、年番四町の俄物がそれに続くという形になり、年番町以外の町で俄物を出すのは少なくなるという状況となる。この年に緑町が御祭礼にはじめて参加している。緑町は、昭和二十九年に鬼無里村松原から屋台を一一万六〇〇〇円で購入して、昭和三十二年に年番町をつとめて屋台を巡行させた。だが、この年の御祭礼終了後、年番町と長野商工会議所の主唱により「祇園(ぎおん)祭反省研究会」が開催されて、翌年から長野商工会議所が主催する「夏まつり」にあわせて御祭礼のイベントのひとつである俄物巡行も七月下旬におこなわれることになった。これは、いわば行政主導型の祭りとしての再編成を意味する。この時期は、「もはや戦後ではない」という名文句が『経済白書』(一九五六年版)に登場し、日本が高度経済成長期に突入しようとしていたときにあたる。

 この夏祭り前夜祭(広告祭)は、昭和三十三年から松代群発地震が起きた昭和四十一年まで続けられた。この祭りは、昭和四十二年に、長野青年会議所主催の夏祭り前夜祭(火と水と音楽と若者たち)として再編成された。最初の年の祭りは雨のなかで実施されたが、その後、三年連続の梅雨にたたられて祭りそのものが不完全燃焼に終わり、夏祭り前夜祭は昭和四十五年にやむなく中止された。そこで、昭和四十六年に長野市主催の「長野びんずる」(市民祭)の夏祭りとして再編成されることになった。これは、昭和四十五年に大阪府で日本万国博覧会が開催されたのと前後して、全国的な規模で地域の伝統にこだわらない新しい祭りが登場してきたのと対応している。たとえば、東京の昭和四十三年の大銀座まつり、神戸の昭和四十六年の神戸まつり、東京の昭和四十七年の高島平団地まつりなどがある。