長野の町で御祭礼ともよばれる祭りは、善光寺界隈(かいわい)の上西之門町に鎮座する弥栄神社の祭り、すなわち祇園祭のことである。長野の祇園祭については、『長野市史』(長野市役所、大正十四年)に「牛頭天王(ごずてんのう)を祭るものにて、本邦都会の地には、至る所に夏祭として、盛に挙行せらる、速須佐雄尊(はやすさのおのみこと)を祭るものにて、(中略)、古昔(こせき)疫病攘斥(じょうせき)の為の祭礼ならんか。後には善光寺如来の祭礼か、弥栄社の祭礼か、其目的不明なるに至れるやの感あり」と記述されているが、祇園祭がいつ始まったのかは明らかではない。長野の御祭礼については、弥栄神社宮司齊藤武「仏都の夏祭り『弥栄神社』の御祭礼について」(『長野市制一〇〇年記念・善光寺御開帳奉賛 弥栄神社御祭礼の栞(しおり)』平成九年)には、つぎのような解説がなされている。
当弥栄神社が長野の街に奉祀(ほうし)された縁起は、遠く鎌倉時代に将軍頼朝が善光寺参詣の折、ときあたかも夏、悪疫が流行しその退散のために命じて祀(まつ)らせたのが最初と伝えられている。当社の本宮は現在京都の祇園祭で有名な八坂神社で、いずれも御祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祭り、長野の町でも何時(いつ)の時代かはわかりませんが、祇園祭ともまた御祭礼ともいっているのはこの祭典だけで、善光寺をこぞり、この町の支配者であった善光寺の指命を受けて七月七日(旧暦は六月)のてんのうおろし(天王下ろし)から十四日のてんのうあげ(天王上げ)に至る間は全町を挙げての祭典で善光寺住民の信仰力、経済力を世に誇示する大祭でありました。そのため特に十二日に町内の老若男女が揃いの浴衣(ゆかた)で引く屋台は多額な金を要し粋(すい)をこらした立派な物で、今日に至る迄数町に天下に誇る見事な屋台が残されていて、市の指定文化財になっております。善光寺町内の大路を長野市特有の祭礼囃子(ばやし)にのって屋台がギイギイ揺れて通るのは長野の町を彩る真夏の風物詩でもあります。
その他の祭典内容もほとんど京都の祇園祭と同様ですが、ただ京にない十二日の夜の灯籠(とうろう)揃いは善光寺の創立者である本田善光卿(きょう)の御逮夜(たいや)に捧げる各町思い思いの灯籠で、あるいは丸く、四角に、将棋の駒に、と形づくった田楽(でんがく)灯籠で町内を練り、本堂神社に献げる行列(現在は休止している)の先頭と、二十五日の屋台巡行の先頭に立つのは市内の名望家の子弟から選ばれた御先乗りと称される稚児(ちご)であります。神霊が純真な稚児の心に籠(こも)って市街を巡行し夏の悪疫を除き、幸福を人々に垂れ与える重要な役目で行列を統轄し、この先乗りを中心として運行されるのであります。
この伝統のある長野の祇園祭にも種々なエピソードがあり江戸時代には加賀百万石の行列と衝突して祭りの方が勝を得て善光寺町人の意気を示したというような話も伝えられております。
祇園祭の縁起は、弥栄神社宮司の齋藤武によれば「遠く鎌倉時代に将軍頼朝が善光寺参詣の折、ときあたかも夏、悪疫が流行しその退散のために命じて祀らせた」のが最初であるというが、長野の祇園祭は、善光寺門前の商人の祭りとして、室町時代あるいはそれ以前に始まったとされているが明らかではない。長野の祇園祭の歴史については、小林計一郎『善光寺と長野の歴史』(信濃教育会出版部、昭和三十三年)、同『長野市史考』(吉川弘文
館、昭和四十四年)、小林計一郎・依田康資『長野御祭礼史』(長野御祭礼研究会、昭和四十六年)にゆだねることにして、ここでは祇園祭の歴史のあらましをみてみよう。