長野の町はもともと善光寺を中心とする御門前と八町から組織されていた。御門前とは、大勧進(だいかんじん)に付属する横沢町と大本願(だいほんがん)に付属する立町で、これらの町は善光寺に直属する町として別格であった。八町とは、大門町・後(ご)町・横町・北之門町〔新町〕・東町・西町・岩石(がんぜき)町・桜小路〔桜枝町〕である(〔 〕は現在の町名および通称をあらわす。以下同じ)。大門町はかつて善光寺宿の本陣や問屋をはじめ、約三〇軒の旅籠屋(はたごや)があり、旅籠屋営業を独占する特権をもっていた。後町の町名は鎌倉期に後庁(移動した国庁)が置かれたことにちなむものである。北之門町は現在の新町と伊勢町からなっているが、伊勢町の町名は伊勢社があったことによる。ここは北国街道の善光寺境内への入り口にあたり繁華街のひとつとなっていた。東町には東之門町が含まれ、明治以後問屋町として栄えたが、第二次世界大戦後、問屋は旧善光寺町郊外に移転した。西町は阿弥陀院町〔栄町〕・西之門町・天神宮町〔長門町〕などからなる。岩石町は虎御前石にちなむ町で、かつては置屋などもあった。桜小路〔桜枝町〕には狐池・上西之門町も含まれていた。
長野の町は、善光寺の門前町としておこり、ついで、北国街道の宿場町および周辺の村を後背地とする市場町として発展してきたものである。その中心は、元善(もとよし)町・大門町・横町・岩石町・権堂町などの地域であり、これに、裾花(すそばな)川峡谷を後背地として発達した谷口集落としての桜枝町・栄町などの地域が複合して形成された都市である。大正から昭和にかけて、長野の町における商業の中心は、善光寺の門前から長野駅前周辺に移行していった。末広町・石堂(いしどう)町〔北石堂町・南石堂町〕・千歳町〔上千歳町・南千歳町〕などの町の発達である。たとえば、町別の商店数の統計によれば、大正三年(一九一四)には、商店の多い町は大門町、石堂町、西後町、桜枝町、権堂町、東町、新田(しんでん)町、西町、元善町、西之門町の順であったが、昭和三年(一九二八)には、石堂町、権堂町、千歳町、大門町、元善町、問御所(といごしょ)町、桜枝町、新田町、西後町、南県(みなみあがた)町の順となっている。
平成九年(一九九七)は、七年目ごとの善光寺御開帳の年にあたっていたために、平成三年の御開帳に続いて屋台の巡行がおこなわれた。この年の御祭礼の加盟町は、西之門町・西後町・大門町上・緑町・南千歳町・田町・権堂町・問御所町・上西之門町・東之門町・新田町・元善町・東鶴賀町・大門町南・末広町・東町・北石堂町・桜枝町の一八町と、年番町の南石堂町・東後町・西鶴賀町・上千歳町の四町とを合わせた二二町であった。現在の加盟町のなかでは緑町がもっとも新しく昭和二十九年の加盟である。