ここでは明治維新以後の長野の御祭礼の歴史をみてみよう。明治四年(一八七一)の四月に長野の御祭礼の復興願が提出され、同年六月に御祭礼が復活した。このときの祭りの主体は江戸期の町内を単位とするものであった。江戸期の御祭礼の巡行は、大門町通りを境として、西方(大本願に所属していた)と東方(大勧進に所属していた)に分かれておこなわれるという方法がとられていた。つまり、御祭礼は江戸期の町内という地域的な単位の集合体という近世的な都市空間のもとでおこなわれていた。しかし、その復活直後から、屋台・俄物(にわかもの)などの巡行の順番をめぐる西方と東方との対立が表面化している。西方と東方との対立は、江戸期の町内の解体過程と明治前期の町内の変動を反映したものであった。つまり、明治前期の御祭礼は、江戸期の町内の解体と明治の市制・町村制の公布にともなう町内の再編成の影響をうけたのである。
明治二十六年には、屋台・俄物などの巡行の順番は「抽選」という方式をとることで西方と東方との対立関係を緩和している。明治三十年には市制実施祝賀会のために屋台が巡行している。明治三十一年から三十九年までは、西後町・問御所町・権堂町を除けば、御祭礼の参加町は江戸期のものと変わらない。しかし、明治四十年に屋台がはじめて鐘鋳(かない)川以南の問御所町まで巡行した。問御所町はすでに明治二十九年、三十年に灯籠揃いに参加していた。これ以後、屋台の巡行などは旧善光寺町の区域をこえて広い範囲の町内でおこなわれるようになった。つまりこれは、御祭礼が江戸期の町内という近世的な、地域的な単位の集合体をこえた新しい都市空間のなかでおこなわれたことを意味している。町内のあり方がしだいに多様化してきたのである。