鐘鋳川を境とする南北の対立

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御祭礼の参加町に変動がみられるのは、中央通り拡幅工事が完成した翌年、大正十三年(一九二四)の中央通り竣工(しゅんこう)祝賀会以後である。大正十四年には御祭礼において南北の対立がみられる。この南北の対立関係は、江戸期には善光寺領と松代領との境界となっていた鐘鋳川を境界とするもので、大門町付近の衰退と石堂町付近の勃興(ぼっこう)とがかかわっている。

 大正天皇の崩御後、昭和二年(一九二七)には旧善光寺領の一二町でつとめていた年番が、権堂以南の町も加わり二二町全部で順ぐりに割りあてられることに決定している。その後、昭和十二年ごろまで、不景気のために屋台巡行の中止と南北の対立を繰り返しながら御祭礼は断続的に開催されている。昭和十三年ころから二十六年ころまでは、御祭礼は灯籠揃いぐらいしか実施されていない。昭和二十七年から四十五年まで御祭礼の屋台巡行は年番の町だけが担当するという状況で、戦前ほどの華やかさはしだいになくなってきていた。祇園祭としての御祭礼は、昭和四十六年に「長野びんずる」として長野商工会議所主催の祭りとして再編成されることになった。

 御祭礼という祭りをささえる人びとの「祭りの主体」の変化が重要であろう。御祭礼は江戸期の町内という近世的な都市空間においておこなわれていた祭りである。明治初期に御祭礼が復活されて、祭りの主体は善光寺町の御門前と八町をこえて、西後町・東後町・問御所町・権堂町などまで広がりをみせた。これは鐘鋳川を境とする南北の対立を生じさせている。また、祭りの主体は、祭りの中断とともに変化する傾向にある。とくに、第二次世界大戦後、祭りの主体は、北部の町内は年番町だけが参加するだけで、南部の町内の多くが参加するという形式となった。北部の町と南部の町は鐘鋳川を境としてカワキタ(キタ)とカワミナミ(ミナミ)とよばれている。つまり、御祭礼という祭りの主体は、江戸期の町内をはじめとする旦那(だんな)衆の町内から、東後町・西後町・問御所町などの新興商人層の町内や、権堂町という花街のある町をへて、緑町・上千歳町・南千歳町・北石堂町・南石堂町などへと変化していった。と同時に、昭和四十一年に長野市が篠ノ井をはじめとする一市三町三村を合併したことと、松代群発地震の発生とによって、御祭礼は善光寺界隈の祭りとしての意味を失ったのである。


写真2-155 御祭礼の今昔(弥栄神社 昭和34年)
小林邦雄提供


写真2-156 御祭礼の今昔(弥栄神社 平成9年)