長野の御祭礼にみられた屋台の巡行は、昭和三十七年ころから、運営のための資金問題、祭りのにない手の不足などにより縮小する傾向がみられた。屋台の巡行は、昭和三十七年には「俄物(にわかもの)は五台、この年になって、人手が足りなくて、はやしはテープレコーダー」を使用するようになり、昭和三十九年には、御祭礼改革委員会の決定にもとづいて「大勧進、大本願物見下で必ず踊る」という江戸時代以来の催事が中止となった。昭和四十年には屋台の巡行は年番町の桜枝町・東町・北石堂町・緑町だけであった。昭和四十一年とその翌年には屋台の巡行は松代群発地震の発生により中止となり、昭和四十三年には権堂町・緑町の屋台が巡行したが、その翌年には中止となった。
長野市の屋台に関する実態調査が、屋台を所有する篠ノ井地区を含む二四町を対象として、昭和六十三年十二月中旬から翌年の一月中旬までの期間に実施されている。この調査結果は、長野市商工部観光課の編集で『長野市屋台会館建設に関する基礎調査報告書』(長野市、平成元年)としてまとめられている。この報告書には、回答のあった二二町の所有する屋台の保存状況・保存場所・規格・特徴などについて詳細に記録されている。長野の屋台は、弘化四年(一八四七)に起きた善光寺大地震のために、西町上と下西町の屋台が残っただけである。その下西町の屋台も明治六年(一八七三)に焼失している。現存する屋台の分布は、善光寺の門前町を形成した二二町に集中しているが、西町上の屋台は寛政五年(一七九三)に作製された総黒漆塗りのものであり、現在、長野市立博物館に展示されている。横沢町には明治六年に創建された笠鉾がある。また、創建年代の内訳をみれば、明治期のものが九基、大正期のものが六基、昭和期のものが四基、残りの三基は不詳となっている。明治期に屋台を作製した町は、東町(明治五年)・問御所町(同五年)・西後町(同六年)・西之門町(同二十六年)・桜枝町(同二十八年)・栄町(同三十六年)・伊勢町(明治末期)・大門町南(明治期)であった。主な屋台はいずれも妻科の山崎儀作(立川流)の作とされている。また、大正期に屋台を作製した町は、東後町(大正七年)・元善町(同八年)・東之門町(大正末期)・大門町上(大正期)・篠ノ井芝沢区(大正二年)・篠ノ井内堀区(同二年)であった。さらに、昭和期に屋台を作製した町は、北石堂町(昭和四年)・南千歳町(同五年)・上千歳町(昭和初期)となっている。
屋台の状態は、町によって、組み立てて展示されているものもあれば、解体されて倉庫に眠っているもの、部品が破損しているものもあり、さまざまである。屋台と笠鉾の種類は、本屋台一六基、踊り屋台七基、笠鉾一基となっており、それらの屋台の状態は、「保存状態はよいほうである」ものが一〇基であり、「解体したままで、保存状態はよいとはいえない」ものが八基、「修復が必要である」とするものが三基となっている。屋台を組み立てて保存している場合が少ないことから、組み立てに費用がかかることが町内の屋台を出せない原因ともなっている。また、催しごとの運営については、複数回答ではあるが、「御開帳に合わせて、実行するだけでよい」(四一パーセント)、「運営に費用がかかりすぎて、中止したい」(一四パーセント)、「長野市の伝統的な祭事として復活すべきである」(二七パーセント)、「その他」(一三パーセント)、無回答(九パーセント)という結果になっている。また、運営の問題点については、これも複数回答であるが、「にない手がいなくなってきている」(四六パーセント)、「保管場所がなくて困っている」(九パーセント)、「維持、修復に費用がかかるので困っている」(三二パーセント)、「その他」(一三パーセント)、「無回答」(一八パーセント)という結果になっている。この報告書では、屋台の運営の問題点について、「都心地区の人口のドーナツ化現象と、伝統的行事に対する『無関心』が起因している」と指摘している。