お先乗りと屋台の巡行

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平成九年(一九九七)は長野市制百周年と善光寺御開帳の年にあたっていたために、これらの記念行事として、お先乗りと屋台の巡行は通常は七月十三日におこなうべきところを五月二十五日に実施された。なお、弥栄神社の御祭事は例年どおり七月七日の天王下ろしから七月十四日の天王上げまで執行された。「平成九年善光寺御開帳奉賛 お先乗り巡行・屋台運行実施要領」には、お先乗り巡行図、各町の屋台巡行図が添えられている。また、この年の御祭礼の加盟町は、西之門町・西後町・大門町上・緑町・南千歳町・田町・権堂町・問御所町・上西之門町・東之門町・新田町・元善町・東鶴賀町・大門町南・末広町・東町・北石堂町・桜枝町の一八町と、年番町の南石堂町・東後町・西鶴賀町・上千歳町の四町とを合わせた二二町であった。そして年番町役員としては、委員長・副委員長・会計・記録の四名が決められていた。


写真2-161 北石堂町の屋台の巡行(南石堂町 平成9年)


図2-40 屋台の巡行と役割分担

 弥栄神社御祭礼実行委員会の「お先乗り巡行・屋台運行実施要領」にはつぎのように定められている。

一 お先乗り巡行について

 お先乗り 住所 長野市上千歳町一一九一

      氏名 和田卓也

      生年月日 昭和六十三年十月十四日

 各加盟町出役のお願い

 (イ)お先乗り警固役    二名

   各町お先乗り警固役は紋服礼装、一文字笠を着用午前八時までにお先乗り和田家に集合

 (ロ)善光寺山門下詰役   一名

   各町善光寺山門下詰役は紋服礼装着用、午前九時三五分までに大勧進紫雲閣に集合、その後年番町の指示により山門前答礼所に着座して、お先乗り及び屋台の到着を待つ。

 (ハ)善光寺山門下詰役の昼食は大勧進において屋台運行本部委員と同席して行う。屋台奉納終了後、その場において自由解散とします。(午後三時三〇分終了の予定)

二 お先乗り巡行

 (イ)年番町お先乗り警固役は午前七時までに斉藤神官宅に集合願います。各町お先乗り警固役は午前八時までに上千歳町和田家に集合願います。

 (ロ)午前八時四〇分和田家出発、午前九時までに予定された中央通りの指定場所、朝陽館書店前に到着

 (ハ)午前九時一〇分年番町の指示に従い総会時抽選順番によりお先乗り警固体型を作り拍子木の合図により出発

 (ニ)午前九時五〇分善光寺大本願に到着、お先乗り下馬、大本願上人に紹介。午前一〇時一〇分善光寺大勧進に到着、お先乗り下馬、大勧進大僧正に紹介後お先乗り巡行警固一行記念撮影の予定。

 (ホ)善光寺山門答礼所に大勧進大僧正、大本願上人着座、外全員着座終了後、午前一〇時一五分、お先乗り山門に到着、馬上のまま挨拶、大僧正始め山門に着座した人々の前を会釈しつつ通過して、上西之門町弥栄神社に参拝後、各加盟町(二二ヶ町)会所に向かう。

三 お先乗り巡行その他

 (イ)お先乗り警固役の昼食は、富貴楼にてお願いします。

 (ロ)お先乗り巡行図により執行します。

 (ハ)お先乗り警固役の解散は、巡行終了後、和田家前にて手打ち終了後解散となります。終了は、午後三時前後の予定

四 平成九年度年番町よりのお願い

 (イ)お先乗り警固役、善光寺山門詰役の出役リボンは、年番町にて調製します。

 (ロ)各加盟町は、各出役の人員は確保願い、集合時間は厳守して下さい。

五 お先乗り巡行、各屋台運行の交通規制対策について

  当日は、冬季オリンピックを控えて、また高速交通網の整備開通により、県内外からの観光客の入り込みは予想以上の混雑が考えられます。そうした中でお先乗り巡行、屋台運行については、各町実行役員の心労は大変であり、不測の事態の発生も起こる可能性があります。従って、お先乗り巡行屋台運行委員会として、万全を期すために巡行当日、交通規制について、長野中央警察署交通規制担当官・長野市交通対策課・川中島バス路線課にそれぞれ申し入れその協力について要請いたしました。

六 雨天の場合の処置について

  雨天の場合、年番町役員は午前七時までに齊藤神官宅に集合して、年番町会議を開き協議の上各町へは午前八時~八時三〇分までの間にそれぞれ協議決定を通知することにしたい。

七 平成九年弥栄神社御祭礼執行について

  本年は、善光寺ご開帳の年に当たりますので例年七月に執り行う弥栄神社御祭礼のお先乗り、屋台巡行を奉賛の実を上げるために五月二五日に繰り上げ実施することに相成りましたが、祭事は次の日程で執り行いますのでよろしくお願いいたします。

  平成九年七月七日(月)天王下ろし祭

  年番町各町二名参列 紋服礼装着用の上、午後五時までに社務所に集合のこと。

  平成九年七月一四日(月)天王上げ祭

  加盟町各町二名参列 紋服礼装着用の上、午前十一時までに弥栄神社に集合、祭事終了後権堂町富貴楼にて直会(なおらい)を行います。

 お先乗りは、年番町の上千歳町から選ばれた和田卓也(八歳)がつとめた。年番町のお先乗り警固役が午前七時までに神官宅に、各町のお先乗り警固役たちは午前八時までに紋服礼装で一文字笠を着用して和田家(お先乗りの家)に集合した。午前八時四〇分に和田家を出発して、午前九時には中央通りの朝陽館書店前に到着した。お先乗りの巡行体形は、総会時の抽選順番によって決められていたものである。午前一〇時過ぎに善光寺大本願に到着すると、お先乗りは下馬して大本願上人に紹介され、その後、善光寺大勧進に進み、同様に、大勧進大僧正に紹介された。お先乗りは、小休止と記念撮影をへて、善光寺山門で馬上のままあいさつを交わし、大僧正をはじめ山門に着座した人びとの前を会釈しつつ通過して、弥栄神社に参拝後に、各加盟町の会所を巡行した。お先乗りの巡行は午後三時過ぎまで続けられた。屋台の巡行は、権堂町、大門町、元善町、西後町、緑町、北石堂町、南千歳町、上千歳町、南石堂町の順番でおこなわれて、屋台を出さない加盟町は各町の会所で町旗を立てて、お先乗りと屋台の巡行を出迎えたりした。

 年番委員は、鐘鋳川を境とする南北の加盟町から選出される。その年番委員長は原則として鐘鋳川の「上」と「下」で交互に選出され、お先乗りもまた年番委員長の町から推挙されることになっている。しかし、この原則を守ることはなかなかむずかしかったようである。昭和五十四年(一九七九)に開催された善光寺御開帳協賛のためにお先乗りと屋台巡行がおこなわれたが、鈴木純三『問御所屋台巡行覚書帳』(昭和五十九年)によれば、この年には年番委員長を選出するという原則は破られている。

一 委員長の選出は古い慣例、慣習に従うと、鐘鋳川の上と下が、交互にこれをつとめるということであり、昭和五十三年は権堂町がつとめたので、五十四年は当然川上で引き受けるべきであるが、いろいろの事情を考慮して、川下の問御所町がつとめること。

二 お先乗りの推挙は、古いしきたりによれば、委員長をつとめた町から推挙するのが当然とされていたが、川上の四ヶ町が責任をもって推挙し、あわせて、副委員長、会計および、庶務記録、それから御祭礼委員長と同じ権威をもつとされる屋台運行委員長、の四つの役を四ヶ町が配分、引き受けること。

三 ただし、この二つの決めは昭和五十四年の御祭礼にかぎること。

 この年に年番委員長を選出する原則が破られたのは、問御所町が「他の四ヶ町とちがい、市の中心部にあり、戸数も多く大型商店、会社それに銀行は四つもあり、商店も揃っているから」などの理由があげられたという。これは、昭和五十年度の資料であるが、年番町の世帯数・事業所数をみれば、問御所町一四九世帯(二五事業所)、大門町上二八世帯(事業所なし)、西町上三四世帯(四事業所)、元善町一〇五世帯(事業所なし)、大門町南四〇世帯(五事業所)という結果になっていることからも明らかである(小林計一郎・依田康資編『長野市区長会誌』昭和五十一年)。屋台巡行のためには屋台の組み立てに始まり、巡行の弁当代、酒代、鳶(とび)職の謝礼、引き手の確保などに多大な資金と人手がかかる。お先乗りという祇園祭のスターをつとめるにも、知事、市長、善光寺事務局長、県関係者、区長、経営者、各町の警固役など約二百人を招待して高級料亭でおこなう披露宴の費用と、お先乗り巡行の費用を合わせれば家一軒が建つほどの資金が必要となるという。