長野の祇園(ぎおん)祭は戦後にしだいに復興の兆しをみせはじめたが、いろいろな悪条件で、御祭礼の様相にいきづまりを感じ、加盟町内に改革論が高まってきた。昭和三十二年(一九五七)に祇園祭の年番町と長野商工会議所の主唱により「祇園祭反省研究会」という組織が創設されるが、これが「長野の夏まつり」として新しい祭りを創造するきっかけとなった。その結果、これまで祇園祭に付属する行事としておこなわれていた俄物(にわかもの)行列は、祭事から分離して「長野夏まつり」として独自におこなわれることになった。この主催は長野商工会議所があたり、その内容は市各町の参加を原則とする商工繁盛、農事豊穣(ほうじょう)、市民総和楽をモットーとするカーニバルとするというものであった。この夏祭り前夜祭(広告祭)は、昭和三十三年から松代群発地震の最中の昭和四十一年まで続けられた。「長野夏まつり」の規程は、『長野商工会議所六十年史』(昭和三十七年)によれば、つぎのようなものであった。
第一条 この「まつり」の名称は「長野夏まつり」と称する。
第二条 「長野夏まつり」(以下「本行事」と称す)は商工繁盛・農事豊穣・市民平和を目途し、且(か)つ繁盛をもって全目的とする。
第三条 「本行事」の主催は長野商工会議所が担当し、長野市、長野市議会、長野観光協会、長野市区長会、長野市商工連合会、長野市婦人会及び長野青年会議所が協賛する。
第四条 「本行事」の事務所は長野商工会議所内に置く。
第五条 第二条の目的を達成するため、左の事業を行う。但し実施細目は別に定める。
1 七月盛夏の候を期して、市各町参加を原則とする諸行事の実施
2 まつり期間中全商店街の連合大売出し
第六条 「本行事」運営のため、左の役員を以て役員会を構成する。
会長一名、副会長若干名、監事二名、総務委員長一名、同副委員長若干名、執行委員長一名、同副委員長二名
また、夏祭り前夜祭(広告祭)の創設の経緯については、『長野商工会議所六十年史』のなかにつぎのように記述されている。
長野の祇園祭は豪壮華麗な屋台をつらね、京都や高山のものとならんでいわゆる日本三大祇園祭とよばれて、天下に誇るものであった。ところが、戦後復興してからは、いろいろな悪条件で、祭礼の様相に行きづまりを感じ、参加町間に改革論が高まってきた。当所(長野商工会議所)でもたまたま同様の見解をもっていたことから、三十二年の祇園祭の直後祇園祭年番町と当会議所の主唱により、祇園祭反省研究会が開かれ、これが「長野夏まつり」の出発点となった。(中略)その結果これまでの祇園祭(弥栄神社祭礼)の付帯行事として行なわれてきた俄物行列は、祭事から分離して「長野夏まつり」として独自に行なうこととし、またこの主催は長野商工会議所がこれにあたり、その内容は全市全町の参加を原則とし商工繁昌・農事豊穣・全市民和楽をモットーとする大カーニバルとするというものである。そして、市は、この行事に対し百万円の補助金を交付することにきまり、三十三年から毎年七月下旬三日間にわたってこの「まつり」を催すことになった。