夏祭り前夜祭(火と水と音楽と若者たち)は昭和四十六年(一九七一)に長野市主催の「長野びんずる」(市民祭)の夏祭りとして再編成されることになった。これまでの夏祭りは長野商工会議所主催でおこなわれてきたが、新しい夏祭りは、長野市に市民祭の主管を返還する形をとり、長野商工会議所が形式的には背後から協力体制をとるという、市民総和楽(市民が参加し、企画し、実行する祭り)を前提とした祭りの創設をめざしたのである。新しい夏まつりの創設について「長野商工会議所報」(昭和四十六年五月二十五日)にはつぎのように記述されている。
「長野夏まつり」はこの夏から「長野びんずる」と銘打って、新しい企画のもとに全市的規模で新発足することになった。「長野夏まつり」は、過去一三年間に亘(わた)って当所が主催、毎年七月十三日、十四日の両日「長野祇園祭」に歩を合せておこなってきたが経済の高度成長と時代の変遷に伴なって、世相もまた大きく推移し、当所主催のままでは規模の限界もうかがわれ、伝統の行事も先細りが予測されるに至った。ここにおいて当所はさきに、夏まつり行事は従来の形式を脱皮、市が主軸となって、新しい時代に適応した企画と市民総参加を前提とした全市的規模の行事に再編成して、市民総和楽の祭り本来の精神を生かすとともに将来は全国的観光行事にまで発展させ、もって市の経済発展を期待すべきである-と市当局に意見を具申、その実施を望んだのである。これに応えて夏目市長は市内の関係諸団体などに呼びかけ「市民の祭り創設委員会」を組織して考究した結果①開催期日は七月三十日から八月八日までの一〇日間とする②この間に長野、篠ノ井、松代等の各地区においてそれぞれ市民総和楽を基調とした行事を実施する-というアウトラインを打ち出した。
「長野びんずる」の名称が誕生した経緯について、当時の青木恵太郎市民祭実行委員会事務局長は、『びんずる三昧(ざんまい)』(銀河書房、平成三年)のなかで、「長野市には何があるだろうかと考えたが、なかなかいい名称が浮かばない。そのうちに、さわりあうということから、最初のころ考えていたおびんずるさんの名前をもらったらどうかということになった。そして、『びんずる祭り』という名称が考えだされた。びんずる祭り、ことばのゴロもいい。どうやら長野市といえば善光寺というイメージにも適(あ)うのではないかということで、ここに『長野びんずる』の名称が誕生したのである」と回想している。「長野びんずる」の名称は、「祭り」「ふれあい」「善光寺のびんずる」(釈迦の弟子賓頭盧(びんずる)。疾患を有する人は患部と同じ木像の箇所をなでると治癒するという信仰がある)「びんずる祭り」という連想ゲームのなかで誕生したのである。