地縁集団の「連」からの離脱

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第一回長野びんずる(昭和四十六年)では、踊りに一四六連が参加を予定していた(『信濃毎日新聞』には一二八連、約七千百人が参加したと報道されている)。この一四六連の内訳をみると、町内会・商店会などの地縁的な性格をもつ集団は七一連、企業などの社縁的な性格をもつ集団は六七連、その他は八連となっている。長野びんずるの創設にあたり、祭りの「連」は、町内会・商工会などの地縁集団と企業などの社縁集団を中心に編成されたのである。町内会・商店会など地縁集団を中心とする「連」は、御祭礼の年番町、区長会、婦人会、商工会議所などの組織を中心として動員されたことが明らかである。これらの「連」は旧長野市街をこえて、三輪・芹田(せりた)・吉田・古牧・古里・大豆島(まめじま)・朝陽・若槻(わかつき)・安茂里・青木島・保科地区にまでおよんでいる。

 第三回長野びんずる(昭和四十八年)から第十三回(昭和五十八年)までの長野びんずるの「連」に関する資料がないので、町内会・商店会などの地縁的な性格をもつ集団の離脱プロセスを明らかにすることはできないが、第十四回(昭和五十九年)以降には、町内会を単位とする踊り連では、大門町連・横山連・七瀬町連・権堂連・北石堂連・朝陽連のみが参加しているだけである。だが、これらの地縁的な集団も、長野びんずるの参加連から離脱する傾向がみられ、大門町連・朝陽連は昭和六十一年、七瀬町連・北石堂連は昭和六十二年、権堂連は平成元年、横山連は平成七年から長野びんずるに参加していない。長野びんずるは第十四回(昭和五十九年)までには社縁的な集団を中心とする「連」になってきたのである。


写真2-165 びんずるは疲れます(中央通り 平成9年)

 旧善光寺町の住民にとっては、「御祭礼が祭りであり、びんずる祭りはイベントである」という意識があるのであろう。しかし、長野の祭りをみてみると、御祭礼もびんずる祭りも「イベント祭り」とよんでもよい祭りの形式であるように思われる。それは、祭りの主体が「町衆」の参加型であったか、「行政」の動員型であったかの違いにすぎない。御祭礼の俄物巡行という「俄物」という語感にも「踊り屋台」の出し物にもイベント性を読みとることができる。長野びんずるは、行政主導型の祭りとして、伝統的な祭りと思われてきた御祭礼の組織基盤を利用することで誕生したのである。長野びんずるは、地縁集団を中心とする「連」が離脱してしまい、企業や学校などの社縁集団を中心とする「連」になってしまったところに夏祭りにたいする違和感を生じてしまったのである。たとえ御祭礼とびんずる祭りとの開催日を重ねたとしても、この夏祭りにたいする違和感は消えないであろう。イベントの理念は変化しないこと、マンネリズムを嫌うからである。他方で、各町内の祭礼の数々は厳粛な意味でも伝統的な祭りであるといえるであろう。