畳職人の技能伝承

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写真2-166 畳作り (安茂里 昭和49年)松瀬孝一提供

長野市の市街地は郊外と異なり、寺、料理屋、旅館があり、年間とおして畳の仕事があったので、戦前から専業の畳屋があった。松代では大正期から昭和初期にかけて製糸業がもっとも盛んであったころには、多くの工女(女子労働者)を住まわせるために工女用の宿舎があり、毎年五月ころには畳の張り替え需要があった。松代の畳職人は現在では四軒しかないが、大正期には農業を兼ねながら一六軒あったのも製糸業のためである。民家で畳を敷いた部屋はおもに座敷だけであったのが、大正期のすえころになると茶の間にも敷くようになったことも畳の需要を増やしていった。

 長野では、とりわけ善光寺があるために、かつては特殊な技能の習得のため「わたり職人」といって、各地から職人が集まってきていた。戦前までは行李(こうり)一つもって、昔のやくざのようにきちんと仁義を切って仕事をしていくようすがみられた。職人が来ると親方が仕事をさせるわけであるが、人手が余っていて断わるときには、当夜の宿泊費と金一封を包んで渡していたという。名目は仕事を覚えるということであったろうが、そのまま居着いて開業した人もあり、少し稼ぐと出ていく人もあった。

 このほか親方の下でワカイシュ(若衆)といって一四歳くらいから二〇歳の兵隊検査までの若者が修業に励んでいた。ふつう、修業を始めても一年目は針はもたせず新床のわらをすぐったり、糸に油を塗ったり、親方の包丁を研(と)いだりし、二年目で上敷き、畳床を作るようになり、針の使い方を会得(えとく)しはじめる。二年目まで針をもたずに床だけ作っていたという例もある。暇なときに親方が紋縁(もんべり)の小さな細工ものを作らせて、技法を覚えさせたりしていた。「見て覚えろ」といわれ、「あとは自分で覚えて上手になれ」だった。それが伝統的な技能の伝承のあり方であった。


写真2-167 畳職人のハッピ姿 (上松 平成10年)

 具体的にみていくと、上松で畳店を経営するS氏(大正二年生まれ)は三代目になる畳職人であるが、初代は別の姓で、先に述べたような「わたり職人」として、静岡から長野にきたと思われる人である。どこで畳職の技能を身につけたかはわからない。二代目はそこで修業していたT姓の人に譲った。この人も他郷からきていた職人であったから、二代にわたって「わたり職人」が当主になったことになる。三代目にS氏が入って今にいたる。S氏の場合は尋常高等小学校を卒業してから住み込みで修業を始め、ここで気の荒(あら)いわたり職人や兄弟子にしごかれながら、寺院などの畳の特殊加工の技能などを身につけた。無給が基本で、親方がたまに小遣いを渡す程度で、仕事が忙しいときは朝昼なく働き、暇になれば休むという勤務体制だった。戦後の一〇年くらいまで、一年目の人は針をもたされなかった。S氏もそうであった。それ以後の人は昭和三十三年(一九五六)の職業訓練法によって「やって見せ、いって聞かせて、やらせてみる」と提唱されたことにみられるように、それまでの「見て覚えろ」とは異なった指導を受けるようになった。法の趣旨にのっとって実質的に変わっていくのは、あとに述べるように昭和四十年ころからである。