S氏の家には畳作りのさまざまな技法を記した文書や版木(はんぎ)があったが、戦時中に焼いてしまって、そのうちの一冊だけ残っている。そこに書かれた内容だけでは畳作りの手引きとしては不十分であるが、高度な縁(へり)の図解や畳の敷き方が書かれており、冬の暇な時期にいろいろな技法を試して、ほかの職人に誇ったものとも思われる。なかにはそれまで秘伝とされてきたような技能が含まれていて、今でもこれら特殊なものについては、ほかの職人には教えないという状況が強い。たとえば紋縁を合わせるとか、板入れの板の入れ方、六角、八角の畳の製法、寺院の丸い柱に接する畳の縁をひだを出さずに収めるといった特殊工事は、限られた畳店にしかできない。善光寺の大勧進(だいかいじん)の約六十畳の紋縁の畳を入れるには、正確に隣りあう十何枚かの紋が合わなければならない。繧繝縁(うげんべり)という縁は問屋にも置いてないことがある。繧繝畳は貫主(かんす)(大勧進)、上人(しょうにん)(大本願)という最上の僧侶(そうりょ)しか使えないものである。畳職人でも、現在の国家検定にもないこうした技術を身につけるには、それなりの畳店で修業する必要があり、ほとんどの職人はそういう経験はできない。こうした点ではあとに述べるように、国家検定制度ができたことによって技術の水準は向上して一定のレベルが保たれるようになってきた反面、特殊な技法に関してはかつての徒弟制度にも似た、師匠からの直接の伝授によらなければならない状況にある。長野の畳職には寺院との関係でそうした特殊技能が伝えられているのである。
そして、畳一枚一枚の作成技法ばかりでなく、畳職の基本は、広間に敷きつめるときに全体を面としてとらえることであるといわれる。修業が不足していると、広間に敷くときに畳の角を合わせようとして一枚の畳を見てしまいがちである。畳を同じ向きに敷きつめるのをヨツイジキといい、四枚の畳の接する中心をヨツイというが、これがきちんと十字になるとともに、すべての畳の縁が一直線に並ぶように、つまりトオリを合わせなければならない。畳は敷きつめてあっても人が歩く力が加わって少しずつ動くので、入れ替えをするときにもまず元の位置に戻して、部屋全体のバランスをとってみる。そうして畳のあるべき位置を確かめてみなければならない。丁寧な人は糸を張ってトオリを合わせて、畳の位置と寸法を決めていた。戦後、機械化されてこういった基本がおろそかにされて、畳職は一枚一枚の畳の加工ができればよいということになってしまっているという。畳職のわざの領域の広さを物語るものといえよう。