職業補導所と大工の技能の習得

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第二次世界大戦直後には、政策によっていくつかの職業訓練の機会が設けられていたが、戦前からおこなわれていた補導事業を継承した職業補導所が各地に作られた。これは戦後の混乱のなかで失業対策を講じるために設置され、全国的には建築・木工関係が圧倒的に多かった。というのは、戦災地の復旧が始まり建築関係の技能者が必要とされたためである。この事業はさらに厚生省から新しくできた労働省に受け継がれ、昭和二十二年(一九四七)十二月の職業安定法の施行によって、全国的に統一された補導基準で知識と技能を教えるためにいっそう整備された。目標は非常にはっきりしており、職業安定行政の一環として、特別の知識技能を要する職業につこうとするものに必要な知識技能を授けて、適職就職の機会を確保し、産業に必要な労働力を充足し、職業の安定をはかり経済の興隆に寄与すること、とされていた。昭和二十三年八月現在では、全国に三八五ヵ所、種目別には四六九ヵ所の公共職業補導所があり、定員数は二万二千人強であった。この事業はもともと経済的に困窮している失業者を対象としようとしていたが、実際には新規中卒者の職業補導に比重がかかっていたといわれる(『日本職業訓練発達史〈戦後編〉』)。

 川中島で工務店を経営するF氏(昭和四年生まれ)も職業補導所で基礎的な技能を身につけた一人で、職種としては大工である。氏は小学校高等科を卒業したあと、一年半くらい青年学校に通い、戦後三年ほど家業の農業を手伝ってからこの道に入った。農家の五人兄弟の二男で木工の細工が好きだったこともあって、手に職をつけるために長野市の中御所にあった職業補導所に通うことにしたのである。当時は非常な就職難で、技能を身につけることが必要と考えたためである。兄がいたので家業は任すことができたし、母親もそうすることを望んでいた。新聞で職業補導所の広告を見て、長野には建築大工科があり、自分に向いているように思えたので応募し、自宅から自転車で通った。

 F氏の場合も経済的に困窮した失業者というわけではなく、新規中卒者の職業補導に比重があったという公共職業補導所の実態にほぼあてはまるであろう。F氏によれば、長野市以外の市町村には建築大工科のほかにもいくつかの職種があったというが、戦災の復旧をめざしていたこの時期には、建築・木工関係が職業補導の中核をなしていた。公共職業補導所はその後、昭和二十五年からの朝鮮戦争を契機として、失業対策というよりも、産業界の合理化を反映したいろいろな要望に沿って基幹産業職種に重点が置かれるようになり、昭和二十六、七年度になると木工や建築などの職種は大幅に減らされて、金属、機械関連の職種が増やされた(同前書)。この意味ではF氏は、戦災復興のための大工を養成しようとしていた公共職業補導所のちょうどいい時期に技能の訓練を受けて、好きであった木工が生かせる職業を選択できた、といえるであろう。