F氏は職業補導所で、県職員の設計士や大工から一年間基礎的なことを学ぶことができた。しかし、年限は一年であったから、そこを出たからといってすぐに一人前にやっていけないので、指導を受けながら技能を身につけていかなければならなかった。そのため川中島で製材所をしながら建築の請負もしていた人を親方として九年間働いて、仕事を覚えた。仕事を覚える手順としては、親方が図面を見ながらスミカケといって材木の加工を示す線を入れるので、それをノミなどで細工することから始め、だんだん覚えてくるとスミカケをやるようになった。早くても三、四年かかるが、簡単な小屋ならばそれでもできるようになる。親方のところで九年で、鑿(のみ)・鉋(かんな)・鋸(のこぎり)といった刃物の基本を習得した。建築物は同じものは一つとしてないから、スミカケはすべて異なっており、棟梁(とうりょう)の仕事であるから、これができるようになれば一人前とみられた。道具は手加減があるから、今も昔も自分もちで、手に合うものを給料から買いそろえた。
F氏は終戦時に一六歳であり、手に職をつけたのが戦後のことであるから、戦前にみられたきびしい親方に殴られたとか、無給で働かなければならなかったとか、住み込みで朝早くから働き、初めのうちは使い走りばかりだったというような、かつての修業時代の慣行は話に聞くだけである。職業安定行政の一環として始まり、特別の知識技能を要する職業につこうとするものに、必要な知識技能を授けようとした職業補導所の制度では、一年間(多くは六ヵ月であった)の時限内では技能の基礎をひととおり教授するだけで、実際に独り立ちするには親方について技能を身につけなければならなかった。一人前になるには一〇年の月日を要しており、奇(く)しくも畳職のT氏と同じ期間をついやしている。そこには職人としての仕事を丸ごと身につけて、体で技能を覚えこむものだという気概が認められる。道具を手に合うように慣らしていくという共通の姿勢にも、道具を身体の一部としている職人気質(かたぎ)をみることができよう。