つぎに、一定の技能を身につけ、工務店を開いて自立し、つぎの世代を養成するにあたっては、どのような資格が必要になり、そのためにF氏はどう対応したのかについてみていくことにしたい。
先に述べたように、F氏は親方のところで九年働き、それからフリーであちこちの下請け大工をするようになった。これは一つの住宅を手間賃だけで一〇〇人かかるとすると、それに日当を掛けて総額でいくらという形で請け負わせる方法で、下請けすると夕方遅くまで仕事をするなどして、一〇〇人で受けても九〇人分で終えてしまうことも可能であった。東京オリンピックのころが下請け大工の時代である。下請け大工を四、五年すると、直接に依頼者からの増改築、新築の請負の仕事ができるようになり、有限会社の工務店を設立して現在にいたる。請負をするのは隣村など距離にして半径二キロメートルくらいの知人・親戚(しんせき)関係から始まり、工事をした家の近くから頼まれたりする。いい仕事をしておけば、あとからそれを聞きつけて仕事を依頼される、というぐあいにして請負ができるようになっていったのである。新築の請負仕事をするようになると、手伝いをしてくれるものが必要になり、自分で見習いを育てるには職業訓練指導員免許証(県)が必要で、昭和三十九年九月にとった。これは昭和三十三年の職業訓練法にもとづくもので、これによりみすがらの技能をつぎの世代に伝えて、職人を養成できるようになった。
それに先立つ昭和三十五年には、池田内閣の国民所得倍増計画が公にされ、高度経済成長路線のもとで産業構造の高度化が推し進められていったが、同じ年に職業訓練指導員の訓練も実施されている。当時、進学率が上昇して中卒の労働力が減退し、新興産業と衰退産業の交替にともなう離職者の就業問題、陳腐化(ちんぷか)するおそれのある経験工にたいする再訓練などといった、労働市場の構造変化に対応する職業訓練体制が改編されるなかで、その一部としておこなわれたものである(同前書)。F氏はこうした国策のなかで職業訓練指導員免許証を取得し、職人の養成にあだっての公的な裏付けとしたのである。住居を設計するための建築士事務所登録に必要な二級建築士免許証を昭和三十九年十月にとったが、設計の基礎的技能については職業補導所で身につけたものが役に立っていた。また、請負をするために、建設業法による建設業者という県への登録もした(のちに許可制となる)。
明治ころまではまず建主が、大工はどこへ、瓦(かわら)屋はどこへというように、直接に発注する直営方式であったが、そののち業者が一括して請け負うようになってきた。そこに業者が手抜きをするなど不明朗な処理がみられたことから、一定の規模、基準、技術者をそろえるようにさまざまな許可制度ができあがってきた。以上に述べたような免許もそのような背景によって確立され、F氏もそれに従ったのである。